小学校にある二宮金次郎の銅像の意味とは?スマホが撤去の理由?二宮金次郎の名言

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みなさんの通っていた小学校には「二宮金次郎」の銅像がありましたか?

子どものころ「なぜこの人は背中に薪を背負って、本を読みながら歩いているの?」と疑問を抱いた人がいるかもしれません。

今回は、二宮金次郎の銅像の意味や撤去の理由について解説します。

 

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目次

二宮金次郎とは?

二宮金次郎の読み方は「にのみやきんじろう」です。

また、二宮尊徳(にのみやそんとく)という名前でも知らています。

「尊徳」という名前は、亡くなってから与えられた名前で、正式には「たかのり」と読みますが「そんとく」と読むことが多いです。

 

また、本来は「金治郎」という字なのですが「金次郎」と表記されることが多いそうです。

ここでは一般的に使われている「金次郎」の表記で話を進めさせていただきます。

 

まずは二宮金次郎の生涯を見ていきましょう。

二宮金次郎の生涯

 

二宮金次郎は、江戸時代の人物です。

天明7年(1787年)、相模国足柄上群栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に裕福な百姓の家の長男として生まれました。

 

金次郎が5歳の時、南関東を襲った暴風で村の近くの川が決壊し、田畑と家を流失してしまい、金次郎の家は借金を抱えて家計は苦しくなりました。

14歳の時に父が亡くなり、金次郎は、早朝は薪(まき・たきぎ)を拾い、昼は田畑で働き、夜は草鞋(わらじ)を作って、一家4人を支えました。

しかし、大変貧しく食べ物にも困ることがあったそうです。

 

この頃金次郎は「この先、百姓も知識や知恵を持たなければならない」と考えており、いつかは二宮家を再興すると心に誓い、苦しい生活ではありましたが、薪を町へ売りに行く時には、薪を背負って歩きながら本を読んでいたといわれています。

 

二宮金次郎の銅像

 

16歳の時に母が亡くなり、幼い弟2人を親戚に預け、金次郎は祖父の家に身を寄せます。

金次郎は一日も早く弟2人と一緒に暮らしたいという思いから、一生懸命に働き、働きながら勉強も続け、コツコツと貯金をし、20歳の時に生家の再興に着手します。

家を修復し、失った田畑を買い戻し、一部を貸し出すなどして収入の増加を図り、31歳の時には大地主になっていたそうです。

 

二宮金次郎の銅像

 

暮らしに困っている村人には無利子でお金を貸し、金次郎の好意を感じた村人は自ら利子を決めて返したといわれています。

25歳の時には、武士の暮らしぶりを学ぶため、農園を経営しながら小田原で武家奉公人として働き、小田原藩の家老、服部氏に仕えました。

その時、金次郎の財務整理能力を見抜いた服部氏から家政の立て直しを依頼されました。

 

二宮金次郎の銅像

 

服部家の財政は破綻寸前でしたが、金次郎の手腕で4年で再建したそうです。

このことが評判となって金次郎の名は小田原で知られるようになりました。

その後も多くの家や村の救済や再興を行い功績をあげ、生涯で600以上の村の立て直しをしたといわれています。

 

 

また、初物のナスの味がいつもと違ったことから、冷夏の予兆ではないかと思った金次郎は、村人たちに冷害に強い稗(ひえ)を植えさせ、天保の大飢饉(てんぽうのだいききん・1833年~1839年)からひとつの村を救ったというエピソードもあります。

天保13年(1842年)、56歳の時には天保の改革を行っていた幕府に登用され、安政3年(1856年)に70歳で人生の幕をおろしました。

このように、田畑や家を失い、借金を抱え貧困に苦しんだ二宮金次郎ですが、努力を続けて百姓から幕府の役人にまで出世し、貧困に苦しむ人を救い、数々の功績を残したのです。

 

二宮金次郎の銅像の意味とは?なぜ小学校に設置されるようになったのか?

 

二宮金次郎の銅像が初めて作られたのは大正時代のことです。

なぜこの頃、二宮金次郎の銅像が各地の小学校に設置されたかというと、当時の日本では自主的に国に奉公する国民の育成を進める政策を取っており、自らの力で貧困から立ち直り、幕府のために働いた二宮金次郎はそのモデルとされたためです。

当時の小学校では「二宮金次郎」という唱歌が歌われていたそうです。

「二宮金次郎」

作詞者・作曲者:不明

 

【1】

柴刈り縄ない 草鞋をつくり

親の手を助け 弟を世話し

兄弟仲よく 孝行つくす

手本は二宮金次郎

 

【2】

骨身を惜まず 仕事をはげみ

夜なべ済まして 手習読書

せわしい中にも 撓まず学ぶ

手本は二宮金次郎

 

【3】

家業大事に 費をはぶき

少しの物をも 粗末にせずに

遂には身を立て 人をもすくう

手本は二宮金次郎

 

また、国の政策のためというだけではなく、純粋に勤労・勤勉のモデルとして銅像を設置した小学校もあったそうです。

また、薪を背負って歩きながら本を読んだ姿が銅像になっていますが、実際に二宮金次郎は本を読みながら歩いていたわけではなく、薪を背負って歩きながら、覚えたことを暗唱(文章を見ずに声に出して唱えること)していたともいう説もあるそうです。

 

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二宮金次郎の名言

二宮金次郎は次のような名言を残しています。

 

■名言①

「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」

 

■名言②

「貧富の違いは、分度(ぶんど)を守るか失うかによる。」

(貧富の違いは、経済面の自分の実力を知り、身の丈に合った生活を守れば豊かになるし、守れなければ貧しくなる)

※分度とは収入の範囲内で支出を定めること

 

■名言③

「遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す」

(遠い将来を考えて行動する人は裕福になり、目の前のことしか考えない人は貧しくなる)

 

■名言④

「世の中は、知恵があっても学があっても、至誠(しせい・誠実さ)と実行がなければ、事は成らない」

 

スマホが撤去の理由?

二宮金次郎の銅像は、時代ごとに様々な理由で撤去されています。

 

戦時中には、金属を兵器に作り替えるため、家庭内の鍋ややかん、お寺の鐘などさまざまなものが供出されましたが、二宮金次郎の銅像もその対象となり、小学校から撤去されたそうです。

戦後になると、今度は「本を読みながら歩くのは危険だ。子どもが真似するといけないから撤去した方が良い」ということで撤去されたそうです。

 

そして現在は、歩きスマホが問題になっていますよね。

金次郎はスマホをしているわけではないのですが、歩きスマホは危険だと問題視するなら、歩きながら本を読むのも危険だというのです。

また、教育現場では「ながら行動をしないように」と指導していることから、本を読みながら歩く姿は良くないこととされ、撤去されたり、代わりに座って本を読む二宮金次郎の銅像が作られるようになったそうですよ。

 

座って本を読む二宮金次郎の銅像

 

二宮金次郎という人がどういう人だったのかわかりましたね。

現在のように、子どもに教育を受けさせる義務などありませんし、「百姓に学問はいらない」と叱った祖父の言うことが正しい時代だったはずです。

それでも学ぶことを諦めず、働いている間も時間を惜しんで勉強続け、数々の功績を残した金次郎はたいへん立派な人物だったのですね。

歩きながら本を読むのは危険なことですが、二宮金次郎の銅像がなくなってしまうのはとても残念なことです。

金次郎の生き方はこれからも伝えていきたいのものですね。

 

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コメント

コメント一覧 (1件)

  • 昭和3年創立の学校で(大阪市内)芝を背負い本を読みながら歩く二宮尊徳の石像を見たのは初めてです。
    私が通った学校(戦後)の内、歴史の古い学校や田舎の学校ではよく見かけたものですが、令和元年に見たのは初めてです。”芝刈り 縄ない 仕事を世話し…”の歌通りの石造がまだ学校にあるなんて…

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