「駅伝」といえば、お正月の「箱根駅伝」を思い出すのではないでしょうか?
大学生たちがタスキをつなぎながら箱根の山を走り抜けていく姿を見ると、テレビから目が離せなくなり、ついついテレビの前で応援をしてしまいますよね。
そんな「駅伝」ですが、発祥はいつなのでしょうか?
なぜタスキで、距離は何キロなのでしょうか?
山の神とは何なのでしょうか?
今回は「駅伝」についてわかりやすく解説します。
駅伝の意味とは?
駅伝の読み方は「えきでん」です。
正式名称は「駅伝競走(えきでんきょうそう)」です。
駅伝は、数人がひとつのチームとなり、長距離を区切った「区間」をリレー形式で走る陸上競技の一種です。
ひとつの区間を走り終えるごとに、次の走者へとタスキを渡していきます。
公道を使用する時間が限られているため、遅いチームはその区間を走り終わる前に予備のタスキを使って「繰り上げスタート」をする場合もあります。
駅伝は、古代から近世まであった「駅伝制(えきでんせい)(駅馬・伝馬制)」が由来といわれています。
「駅伝制」は「駅馬(えきば)」や「伝馬(てんま)」という馬を使って、手紙や物資、使者などを運ぶことを主とした制度のことです。
大化の改新(645年)のころ、馬を乗り継ぐための施設や宿泊施設が整備されました。
また、鎌倉時代(1185年~1333年)になると、飛脚(ひきゃく)が登場します。
飛脚とは、金銭や手紙、物品などを運ぶ仕事に従事する人のことで、現在なら歩くと2週間程度かかる東京~大阪間(約500km)を3日~4日で走ったといわれています。
飛脚はひとりで走っていたわけではなく、宿場(しゅくば)と呼ばれる場所までの10km程度の距離を交代して走ったそうです。
これらの、 駅伝制や飛脚などが駅伝のルーツといわれています。
駅伝の発祥とは?
日本で初めて競技として「駅伝」が行われたのは、大正6年(1917年)の「東京奠都(てんと)記念東海道駅伝徒歩競争」です。
讀賣新聞社会部長の土岐善麿(ときぜんまろ・1885年~1980年)の発案で開催されました。
「東京奠都」とは、明治維新の際に江戸が東京になり、都として定められたことを意味します。
明治元年(1868年)10月13日に明治天皇はそれまでお住いだった京都から、東京の江戸城へ入られ、明治2年(1869年)に政府が京都から東京へ移されました。
そのことを記念して、東京奠都から50年後の大正6年(1917年)に「東京奠都五十周年奉祝大博覧会」が開催されました。
この博覧会のイベントのひとつとして、明治天皇が京都から江戸城へ移動されたルートを再現しようという発想で生まれたのが、「東海道駅伝徒歩競争」です。
開催にあたり、大日本体育協会(現在の公益財団法人日本スポーツ協会)の武田千代三郎(たけだちよざぶろう・1867年~1932年)が東海道五十三次の駅伝制(駅馬・伝馬制)からヒントを得て「駅伝」と名付けたといわれています。
この大会では関東組と関西組の2チームが、京都府の三条大橋から東京都の上野不忍池までの約508㎞(23区間)を、昼夜を問わず3日間かけて走り抜けました。
先にゴールしたのは関東組でした。
三条大橋と上野不忍池には「駅伝発祥の地」という碑があります。
金栗四三
関東組のアンカーを走ったのが、マラソン選手の金栗四三(かなくりしそう・1891年~1983年)です。
金栗四三は、日本人で初めてオリンピックに出場した人です。
初めての出場となる明治45年(1912年)の第5回ストックホルムオリンピックでは、競技の途中で道を間違えてそのまま行方不明となり、途中棄権という結果に終わりました。
しかし、途中棄権という意思が運営側に伝わっておらず、記録では「競技中に失踪し行方不明」となっていたそうです。
このエピソードには後日談があり、金栗四三は昭和42年(1967年)に、ストックホルム大会開催55周年の記念式典に招待されたそうです。
そして、競技スタートから54年8か月6日5時間32分20秒3という記録でゴールし、オリンピック史上最も遅いマラソン記録となりました。
箱根駅伝の始まりとは?
「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競争」が大成功をおさめたことで、大正9年(1920年)に「箱根駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)」が始まります。
第1回箱根駅伝は、大正9年(1920年)、箱根の閑散期にあたる2月に観光客を呼び込むため、2月14日、15日の二日間に渡って行われました。
しかし、1月は学校が休みであり、東京~箱根間の交通量が少ない期間であることから、第2回から第30回までは、1月上旬(開催日は固定されておらず)に開催され、昭和30年(1955年)の第31回からは1月2日、3日に開催されています。
箱根駅伝は学生長距離界最長の駅伝競走です。
1日目(往路)は東京都大手町にある読売新聞東京本社ビル前をスタートし、神奈川県箱根町の芦ノ湖駐車場までの107.5㎞を5区間で走ります。
2日目(復路)は逆に神奈川県箱根町の芦ノ湖駐車場をスタートし、東京都大手町にある読売新聞東京本社ビル前までの109.6㎞を5区間で走ります。
1チームに10人の走者がいて、ひとりが1区間ずつ走り、タスキを次の走者へつないで往復で10区間を走ります。
各区間のつなぎの場所・タスキをつなぐ場所のことを「中継所」といいますが、往路と復路でほんの少し場所が異なります。
往路のコース概要と見どころ
往路のコースの概要や見どころは以下の通りです。
1区・・・大手町スタート~鶴見中継所
東京都大手町にある読売新聞東京本社ビル前から神奈川県横浜市鶴見区の鶴見市場交番前までの21.3㎞です。
レースの流れを作る重要な区間といわれています。
2区・・・鶴見中継所~戸塚中継所
鶴見市場交番前から神奈川県横浜市戸塚区の古谷商事前までの23.1㎞です。
各校のエースが登場する「花の2区」と呼ばれています。
3区・・・戸塚中継所~平塚中継所
古谷商事前から神奈川県平塚市の唐ヶ原交差点までの21.4㎞です。
左手に相模湾、正面に富士山を望む絶景を走ります。
4区・・・平塚中継所~小田原中継所
唐ヶ原交差点から神奈川県小田原市の鈴廣かまぼこの里前までの18.5㎞です。
箱根駅伝で最短の区間です。
5区・・・小田原中継所~箱根芦ノ湖往路ゴール
鈴廣かまぼこの里前から、神奈川県箱根町の芦ノ湖駐車場までの23.2㎞です。
箱根山を上る難所です。
往路のコース概要と見どころ
復路のコースの概要や見どころは以下の通りです。
6区・・・箱根芦ノ湖スタート~小田原中継所
芦ノ湖駐車場から神奈川県小田原市風祭駅前までの20.8㎞です。
箱根山を下っていくため選手たちの足に大変な負担がかかります。
7区・・・小田原中継所~平塚中継所
風祭駅前から神奈川県平塚市の高村不動産前までの21.3㎞です。
山からの風を受けた後に海からの風を受け、スタートからゴールまでに気温が急激に変化するため、気象条件に左右されやすいコースです。
8区・・・平塚中継所~戸塚中継所
高村不動産前から神奈川県横浜市戸塚区のウエインズ戸塚前までの21.4㎞です。
海沿いでは海風で体力を奪われてしまいます。
9区・・・戸塚中継所~鶴見中継所
ウエインズ戸塚前から神奈川県横浜市鶴見区の鶴見市場交番前までの23.1㎞です。
復路最長の区間です。
10区・・・鶴見中継所~大手町ゴール
鶴見市場交番前から読売新聞東京本社ビル前までの23.0㎞です。
ビル風や気温上昇で苦しめられながら、ゴールへ向かいます。
箱根駅伝の参加校について
大正9年(1920年)の第1回の箱根駅伝には、明治大学、早稲田大学、慶応大学、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の4校が参加し、東京高等師範学校が優勝しました。
第2回以降参加校が数校ずつ増えていき、戦後の昭和22年(1947年)の第23回大会から予選会が導入されました。
最初のころは予選通過校の数は定まっておらず、10~20校のうち、10~15校ほどが予選通過していたそうです。
昭和31年(1956年)には、前年の箱根駅伝の上位10位までが「シード校」となり、予選会に参加しなくても出場できるようになりました。
昭和50年代ごろになると予選会出場校は30校~50校になり、予選通過校5校とシード校の10校の合わせて15校が出場しました。
その後、平成26年(2014年)から予選通過校は10校に増え、シード校の10校と合わせて20校が出場しました。
平成27年(2015年)の第91回大会からは、予選会の上位10位までと、シード校10校、さらに関東学生連合チームの合計21チームが箱根駅伝に出場しています。
※関東学生連合チームとは、箱根駅伝の予選会で出場権を得られなかった大学の中から、個人成績が優秀な選手が1校につき1名選ばれた、合計16名のチームのことです。
※「第90回大会」「第95回大会」のように区切りの大会は「記念大会」といい、予選通過校の数が11校~13校に増え、箱根駅伝の出場校が合計21チーム~24チームになります。
箱根駅伝に参加できるのは関東地区の大学だけなのはなぜ?
箱根駅伝に出場できるのは、関東地区の大学だけです。
これは、関東学生陸上競技連盟主催の地方大会(関東大会)だからです。
箱根駅伝で3位以内の成績をおさめると、「秩父宮賜盃全日本大学駅伝対抗選手権大会(全国大会)」に出場することができ、10位以内の成績をおさめると、「出雲全日本大学選抜駅伝競走(全国大会)」に出場することができます。
またこれら3つの駅伝を学生三大駅伝といいます。
●出雲全日本大学選抜駅伝競走(通称、出雲駅伝:45.1㎞を6区間)
●秩父宮賜盃全日本大学駅伝対抗選手権大会(通称、全日本大学駅伝:106.8㎞を8区間)
●東京箱根間往復大学駅伝競走(通称、箱根駅伝:217.1㎞を10区間)
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過去には、「特別招待」という形で関東以外の大学が出場した大会もあります。
昭和3年(1928年)第9回大会で関西大学
昭和6年(1931年)第12回大会で関西大学
昭和7年(1932年)第13回大会で関西大学
昭和39年(1964年)第40回大会で立命館大学と福岡大学
第9回、12回、13回は、戦争によって出場校が少なかったためといわれています。
第40回は、40回という節目の記念大会だったため2校が招待されたそうです。
なぜタスキなの?
駅伝では、走者はタスキ(襷)をかけて走り、自分の区間を走り終えると次の走者にタスキを渡します。
なぜタスキが使用されるようになったのか定かではありませんが以下のような説があります。
駅鈴の代わりという説
「駅馬」や「伝馬」の制度があった時代、馬を乗り継ぐための施設や宿泊施設などがある場所を「宿場」と呼びます。
身分の高い人が宿場から宿場へ移動する際には身分証明書として「駅鈴(えきれい)」という鈴が渡されていました。
馬上から駅鈴を鳴らすことで宿場への到着を人々に知らせたり、移動中に馬の首にぶらさげて音を鳴らしながら移動したといわれています。
駅伝では「区間」を走者がつないでいくため、「駅鈴」の代わりとして、タスキが選ばれたのではないかと考えられています。
タスキがけが由来という説
昔、武士は戦に向かう時、動きやすいようにタスキで着物の裾をたくし上げ、気持ちを引き締めるための儀式としてタスキがけしていたことが由来という説。
長距離走に向いているからという説
短距離のリレーでは、片手でバトンを持ち、次の走者へつなぎます。
しかし、長距離を走る駅伝では、片手にバトンを持って走るのは大変なので、走る時になるべく邪魔にならないもの、走者によって長さを調整できるもの、軽くて加工しやすいものということでタスキが選ばれたのではないかといわれています。
このようにさまざまな説がありますが、なぜタスキなのかは定かではありません。
しかし、選手たちは「チーム全員の想いをつなぐ」「タスキは選手の心である」という気持ちで、途切れさせることなく次の走者へつなぐことを考えて走っています。
山の神とは?
往路の5区は箱根山を登るため難所といわれており、チームの成績に大きな影響を与える区間でもあります。
そのため、この区間で特に優秀な成績を修め、人々の記憶に強い印象を与えた選手は「山の神」として讃えられます。
これまで「山の神」として讃えられたのは以下のみなさんです。
歴代 | 大会 | 名前と大学 |
初代 山の神 |
平成21年 (2009年) 第85回大会 |
今井正人さん (順天堂大学) |
2代目 山の神 |
平成24年 (2012年) 第88回大会 |
柏原竜二さん (東洋大学) |
3代目 山の神 |
平成27年 (2015年) 第91回大会 |
神野大地さん (青山学院大学) |
駅伝の距離は何キロ?
駅伝の距離は、特に決まりはなく、大会事に異なり距離もさまざまです。
箱根駅伝の距離はすでに説明した通り
1日目(往路)は107.5㎞を5区間(21.3㎞、23.1㎞、21.4㎞、20.9㎞、20.8㎞)
2日目(復路)は109.6㎞を5区間(20.8㎞、21.3㎞、21.4㎞、23.1㎞、23.0㎞)
です。
国際陸上競技連盟が定める国際レースの場合、フルマラソンの距離である42.195㎞を6区間(5㎞、10㎞、5㎞、10㎞、5㎞、7.195㎞)で走ります。
また、昭和26年(1951年)から平成14年(2002年)まで行われていた「東日本縦断駅伝(青森県~東京都)」では、759㎞の55区間を7日間かけて走りました。
現在は交通事情の問題などがあり開催されていません。
また、昭和27年(1952年)から平成25年(2013年)まで行われていた「九州一周駅伝」は「世界最長距離の駅伝」といわれ、1000㎞を超える距離の50区間以上を10日間かけて走りました。
現在は運営上の問題などで開催されていません。
1000㎞を超える距離を10日間もかけて走っていた大会が過去にあったことに驚きですよね!
駅伝といえば箱根駅伝の印象がとても強いですが、学生の大会だけではなく、実業団や社会人、中高生の大会など各地で開催されています。
社会人の駅伝といえば、元日に行われる「全日本実業団対抗駅伝競走大会(通称:ニューイヤー駅伝)」が有名です。
昭和32年(1957年)から始まった大会で、群馬県庁をスタート・ゴールとして100㎞を7区間で走り、実業団の駅伝日本一を決めます。
市民ランナーたちが気軽に参加できる大会も各地で開催されていますので、友人知人たちとチームを組んで参加してみてくださいね!
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