人が亡くなったあと、あの世へ行くために「三途の川」を渡るといわれています。
「三途」とはどのような意味があるんでしょうか?
またその時、「六文銭」が必要といわれていますが、なぜなのでしょう?
お金がないと三途の川を渡ることができないのでしょうか?
もしも渡れなかったら、人はどこへ行くのでしょう?
今回は、私たちも死後に渡ることになるかもしれない三途の川について解説します。
三途の川の三途の意味とは?
「三途の川」の読み方は「さんずのかわ」です。
三途の川は、仏教に由来しており、此岸(しがん・現世)と彼岸(ひがん・あの世)の境目にあり、人が死ぬと7日目に渡るといわれています。
渡る場所が3カ所あることから、三途の川といわれています。
善人は「金銀七宝で作られた橋」を渡るといわれています。
軽い罪人は「山水瀬(さんすいせ)」と呼ばれる浅瀬を渡るといわれています。
重い罪人は「強深瀬(ごうしんせ)」と呼ばれる深瀬を渡るといわれています。
このとき、生前の罪の重さよって、渡る場所が決まります。
強深瀬は、流れが急で、波も高く、上流から岩が流れてきて罪人の体を打ち砕くそうです。
打ち砕かれてもすでに死んでいるので体は修復され、また打ち砕かれ、修復され・・・そして、川の底には大蛇が住んでいるので食われることもあるという、とても恐ろしい場所なのだそうです。
さらに、川を渡れずに途中で流されてしまったら、そのまま地獄へ行くとも考えられており、重い罪人の多くは渡れずに地獄へ行くといわれています。
どうして六文銭が必要なの?
三途の川のほとりには、衣領樹(えりょうじゅ)という大樹があり、そこには奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という老夫婦の鬼が住んでいます。
三途の川を渡る前に、奪衣婆に衣類をはぎ取られ、懸衣翁が衣領樹にその衣類をかけると、生前の罪の重さがわかるといわれ、その罪の重さによって三途の川のどこを渡るのかが決められます。
しかし、江戸時代ごろには六文銭を持っていれば衣類をはぎ取られることはなく、罪の重さで渡る川を決められることもなく、善人が渡る橋を渡って行けると考えられるようになりました。
六文銭はお賽銭と考えられ、生前の罪を反省し、仏に帰依し、信心します・・・という証に、六文銭を納めることによって、地獄に落とされることなく三途の川を渡れるといわれています。
現在は六文銭は使われていないお金ですが、六文銭を印刷した紙を副葬品として棺にいれる習慣が残っています。
石積みって何?
三途の川には、賽の河原(さいのかわら)という場所があります。
ここは、親よりも先に死んでしまった子どもたちが集まる場所です。
親よりも先に死ぬことはとても親不孝なことで、それは大きな罪であるといわれています。
そのため、子どもたちは両親の供養のために石を積んで塔を作ります。
それが罪滅ぼしでもあるのです。
しかし、塔が高くできると鬼がやってきて壊してしまい、また最初から作りなおします。
作っては壊され、作っては壊され・・・このことから「無駄な努力のたとえ」として「賽の河原」が使われることもあります。
どんなに石を積んでも鬼によって壊されてしまいますが、最終的には地蔵菩薩によって子どもたちは救われるといわれています。
人は誰でも最後は死にます。
死んだあとのことは誰にもわからないのが現実ですが、仏教徒の多い日本では三途の川や賽の河原のお話を知っている人はたくさんいますね。
日本では、石積みをして使者を供養する習慣が各地にあります。
子どもが親のために石積みをするだけではなく、幼くして亡くなった子どものために親が石積みをしたり、海難事故で亡くなった人たちのために海辺を訪れた人が石積みをしたりします。
もしも石で作られた塔を見かけても、壊したりしないでくださいね。
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