春と夏の甲子園では高校球児たちの熱戦が繰り広げられまよね。
試合が終了して、負けたチームの選手たちが泣きながらグラウンドの土を袋に集めて持ち帰る姿を見ていると、もらい泣きしてしまう人も少なくないのではないでしょうか?
では、なぜ甲子園の土を持ち帰るのでしょうか?
最初に持ち帰ったのは誰なのでしょうか?
今回は、甲子園の土のそんな疑問について解説します。
甲子園の土を持ち帰る理由
甲子園の土を持ち帰るのは以下の理由があるようです。
甲子園に出場したという記念
高校球児たちが甲子園の土を持ち帰る一番大きな理由は「記念」のためです。
甲子園に出場できる学校の数は限られています。
春の甲子園は、各都道府県の高校野球連盟推薦校の中から、秋季地区大会の成績や、地域的なバランスを考慮して選ばれます。
甲子園に出場できる学校は基本的には32校です。
夏の甲子園は、地方大会を勝ち抜いて優勝した学校が都道府県代表となります。
東京都は東西、北海道は南北にわかれているので代表は2校、それ以外の府県は代表が1校で、甲子園に出場できる学校は基本的には49校です。
このように、高校球児にとって甲子園は憧れの舞台なのです。
その記念として土を持ち帰るのですね。
グラウンドに立てなかった仲間のため
試合に出場できる人数や、ベンチに入れる人数は限られています。
グラウンドには立てなかった、一緒に練習を頑張ってきた仲間のために土を持ち帰ります。
後輩のために学校の練習場にまく
特に3年生が行います。
自分たちは甲子園で優勝という夢を叶えられなかったので後輩にその夢を託すために土を持ち帰り、母校の練習場にまくそうです。
再び甲子園に戻るため
春の甲子園に出場した高校球児たちは「夏の甲子園にも出場するぞ!」という気持ちを込め、
夏の甲子園に出場した高校球児たちは「来年も甲子園に戻るぞ!」という気持ちを込め、土を持ち帰って学校の練習場にまくそうです。
最初に甲子園の土を持ち帰ったのは誰?
最初に甲子園の土を持ち帰ったのが誰なのか、明確にわかっておらず、3つの説があります。
川上哲治さん
昭和12年(1937年)夏の甲子園の決勝戦で敗れた熊本工業高校の投手だった川上哲治(かわかみてつはる)さんは、負けた悔しさからユニフォームのポケットに土を入れて持ち帰り、母校の練習場にまいたそうです。
佐々木迪夫監督
昭和21年(1946年)夏の甲子園の準決勝で敗れた東京高等師範付属中(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)の佐々木迪夫(ささきみちお)監督が、「来年また返しに来る」という意味で、各ポジションの土を手ぬぐいに包んで選手たちに持ち帰らせたそうです。
福島一雄さん
昭和24年(1949年)夏の甲子園の優勝候補として出場した小倉北高校(現在の小倉高校)は、準々決勝で敗れました。
その時、投手だった福島一雄さんは、無意識の行動でホームベースの土をズボンの後ろポケットに入れてしまい、そのまま持ち帰ったそうです。
本人はポケットに土を入れていたことを忘れていたそうですが、ホームベースでの出来事なので大会関係者も目にしていたのでしょう。
後日、大会運営委員から「学校では学べないものがポケットの土にすべて詰まっている」と励ましの手紙が届き、そこではじめて、土の存在に気付いたそうです。
そして、福島さんは甲子園の土を植木鉢に入れて大切にしたそうです。
甲子園の土を持ち帰ることが定着したのはいつ?
甲子園の土を持ち帰るのがいつごろ定着したのか定かではありませんが、「甲子園の土を持ち帰る」ということを日本中に印象付ける出来事がありました。
昭和33年(1958年)の夏の甲子園に沖縄県代表として首里高校が出場しました。
一回戦で敗退し、土を持ち帰ろうとしたのですが、当時の沖縄県はアメリカ統治下にあったため、植物検疫法にひっかかり、土は海に捨てられてしまったそうです。
このことが新聞で取り上げられ、甲子園の土を持ち帰るということが広く知られるようになったそうです。
甲子園の土を持ち帰る理由がわかりましたか?
毎年、春と夏に高校球児たちが土を持ち帰るので、甲子園の土が無くなってしまうのでは?と心配になりませんか?
甲子園球場は阪神園芸株式会社が整備をしていて、定期的に土を補充しており、その量は年間2トンを超えるそうですよ!
高校球児たちのあこがれの場所である甲子園球場を支えてくれる人がいることも忘れないようにしたいですね。
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