過去の日本の出生率を見てみると、ある年だけ数字が低いことに気づきます。
昭和40年(1965年)の出生率は2.14で、昭和41年(1966年)の出生率は1.58、その翌年の昭和42年(1967年)の出生率は2.23でした。
昭和41年は、前年と翌年に比べるとかなり低くなっていますよね?
それは、昭和41年が「丙午(ひのえうま)」だったからといわれているのですが、丙午とは一体なんなのでしょう?
調べていきましょう。
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丙午の意味とは?
丙午(ひのえうま)は、干支(えと)のひとつです。
干支というと普段、私たちが年賀状や生まれ年などで使っている子(ね)、丑(うし)、寅(とら)・・・のこと?と思ってしまいますが、それらは正確には干支ではなく「十二支」といいます。
それでは干支とはどんなものなのでしょうか?
干支(えと)は、紀元前1600年ごろから中国で使われており、日本には、553年に伝来したと言われています。
干支とは十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせた60を周期とする数詞のことで、 十干十二支(じっかんじゅうにし)とも呼ばれ、暦(年月日)の表示法として用いられています。
十干は
・甲(きのえ・こう)
・乙(きのと・おつ)
・丙(ひのえ・へい)
・丁(ひのと・てい)
・戊(つちのえ・ぼ)
・己(つちのと・き)
・庚(かのえ・こう)
・辛(かのと・しん)
・壬(みずのえ・じん)
・癸(みずのと・き)
の10種類からなり、
十二支は
・子(ね)
・丑(うし)
・寅(とら)
・卯(う)
・辰(たつ)
・巳(み)
・午(うま)
・未(ひつじ)
・申(さる)
・酉(とり)
・戌(いぬ)
・亥(い)
の12種類からなっています。
これらを組み合わせたものが干支(十干十二支)です。
干支の1番目は「甲子(きのえね)」、2番目は「乙丑(きのとうし)」、3番目は「丙寅(ひのえとら)」・・・11番目「甲戌(きのえいぬ)」と続き、60番目が「癸亥(みずのとい)」となります。
それぞれの干支を年に当てはめると、60年で一巡し、また1番目の「甲子」に還ります。
還暦の「還」という字は60年で干支が一巡して、また元に”還る”ことを意味しているのです。
「丙午」は、十干と十二支の60の組み合わせのうちの一つで、43番目に巡ってきます。
そして、昭和41年(1966年)はこの「丙午」の年だったのですね。
それではなぜ「丙午」の年は出生率が低くなったのでしょうか?
それは陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう・万物は木、火、土、金、水の五種類の元素からなるという自然哲学の五行思想と世の中のものを陰と陽に分類する陰陽説をあわせた思想のこと)によって、十干の「丙」と十二支の「午」それぞれがある運気を持つといわれているからなのです。
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十干の「丙」の運気
「十干」は、陰陽五行思想の考えをもとにそれぞれを五行思想の木、火、土、金、水を割り当て、さらに陰陽説の陽を表す兄(え)と陰を表す弟(と)に分けたものです。
少し難しいですのでわかりやすく解説します。
まず、五行思想の「木、火、土、金、水」はそれぞれ以下のような運気を持っています。
●「木」
木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
●「火」
光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
●「土」
植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
●「金」
土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
●「水」
泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
そして陰陽説の「陰」と「陽」は以下のような性質を持っています。
●「陰」
冷たい、暗い、ゆっくり、小さい、収縮、防御、冷、制御
●「陽」
熱い、明るい、早い、大きい、膨張、攻撃、熱、興奮
そして「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸」を「木、火、土、金、水」割当て、それぞれを「陰、陽」に分けたものが、下の表になります。

陽は兄(え)、陰は弟(と)と表現しますのでそれぞれの「十干」は以下のようになります。
甲=木(の兄・陽)(きのえ)
乙=木(の弟・陰)(きのと)
丙=火(の兄・陽)(ひのえ)
丁=火(の弟・陰)(ひのと)
戊=土(の兄・陽)(つちのえ)
己=土(の弟・陰)(つちのと)
庚=金(の兄・陽)(かのえ)
辛=金(の弟・陰)(かのと)
壬=水(の兄・陽)(みずのえ)
癸=水(の弟・陰)(みずのと)
このように十干の「丙(ひのえ)」は陽の火の運気を持つことがわかります。
十二支の「午」の運気
また、十二支の「午」は陰陽五行思想で以下のように割り当てられています。

子(ね)=陽・水
丑(うし)=陰・土
寅(とら)=陽・木
卯(う)=陰・木
辰(たつ)=陽・土
巳(み)=陰・火
午(うま)=陽・火
未(ひつじ)=陰・土
申(さる)=陽・金
酉(とり)=陰・金
戌(いぬ)=陽・土
亥(い)=陰・水
このように十二支の「午(うま)」も陽の火の運気を持つことがわかります。
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丙午生まれの女性の迷信と出生率減少の理由
上記の説明の通り、丙と午は共に五行思想の「火」の運気を持ち、陰陽説の「陽」の性質を持つことから、激しく燃えさかることを表し、中国では昔から丙午の年は火災が多く災いの年であると信じられていました。
この考え方は日本にも伝わり、丙午の年は特に火災に気を付けていたそうです。
そして江戸時代に、1666年(丙午)生まれの八百屋お七という女性が「火災が起これば愛しい彼に会える」という激しい恋心を抱き、江戸の町に放火した事件が起こり、「丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める・夫を食い殺す」という迷信ができたといわれています。
江戸時代、火災は町を焼き尽くす恐ろしいものでした。
放火事件と、その原因がお七の激しい恋心ということが結びつき、丙午の女性に対する恐怖へと結びついたと考えられています。
明治39年(1906年)の丙午は、前年(明治38年)より出生率が4%減少しました。
実際に、明治39年生まれの女性が結婚適齢期になると、縁談が破談になって自殺した女性の報道などが相次ぎ、丙午の迷信が大きく影響したといわれています。
さらに、昭和41年(1966年)の丙午は、前年(昭和40年)より出生率が25%減少しました。
明治39年に比べると減少率が大きいのは、マスコミが丙午の迷信を報道したことが影響し、もしも女の子が生まれたら・・・と考えた夫婦が子供をもうけるのを避けたり、妊娠中絶を行ったりしたそうです。
次の丙午は令和8年(2026年)です。
すぐ先のことになりますが、もしも1966年のときのようにマスコミが丙午の迷信を報道したとしても、それを信じる人がいなければいいな・・・と思います。
1966年生まれの人は、2023年に57歳になります。
その女性たちはきっと、丙午の迷信のように夫の命を縮めたり、食い殺したりすることなく、幸せな日々を送っていると思います。
八百屋お七の放火事件も、本当にお七が八百屋だったのか、丙午生まれだったのか、恋心から放火してしまったのか、明確な資料はなにも残っていませんし、丙午生まれの女性は気性が荒いということの科学的根拠は何もありません。
丙午は、あくまで迷信だということです。
関連:「五黄の寅」の意味や由来とは?生まれた年はいつ?女性の性格は?
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