茶道は日本の伝統文化のひとつですが、「作法が難しそう」「流派がいろいろあってよくわからない」そんな風に感じている人も多いかもしれません。
そこで、この記事では、茶道の歴史や道具、作法、流派の違いなどについてわかりやすく解説いたします。
茶道を始めるときの参考にしてみてくださいね。
茶道とは?
読み方は「さどう」または「ちゃどう」です。
「茶の湯(ちゃのゆ)」ともいいます。
茶道とは、亭主(ていしゅ・主催者のこと)が客人にお茶を振舞う日本の伝統文化です。
お茶を飲むだけではなく、わびさびやおもてなしの精神など、日本の美しい心得を感じることができます。
また、茶道では「一期一会」を大切にしています。
一期一会には、「この機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いである。」という意味があります。
亭主も客も、お互いに誠意を尽くしてその時間を過ごすことを茶道の心構えとします。
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茶道の歴史は?
お茶は、紀元前2700年頃の中国で発見され、そのころは茶葉を食べていたと考えられており、お茶として飲むようになったのは紀元前2000年頃です。
日本にお茶が伝わったのは平安時代(794年~1185年)です。
遣唐使(けんとうし)として唐(とう・現在の中国)に渡った、天台宗の開祖である最澄(さいちょう・766年または767年~822年)が、お茶の種子を持ち帰り比叡山のふもとに植えたといわれています。
このころは、お茶の葉を蒸して丸くしたものを必要な量だけ切り取り、火であぶって細かく砕いて煎じたものを飲んでおり、僧侶や貴族など一部の人たちの薬用や儀式で用いられていました。
お茶を飲む習慣が広まったのは鎌倉時代(1185年~1333年)です。
臨済宗の開祖である栄西(えいさい・1141~1215年)が宋(そう・現在の中国)からお茶の種子を持ち帰り、栽培をして飲むことを広めました。
そして、お茶の栽培方法や飲み方、種類、効能などを「喫茶養生記(きっさようじょうき)」に記したことで、貴族や武士の間でお茶を飲む習慣が広がっていきました。
室町時代(1336年~1573年)中期以降になると、庶民の間にもお茶を飲む習慣が広がります。
そして、大名や将軍の間で茶器や絵画を鑑賞しながらお茶を楽しむ「茶の湯(現在の茶道)」が誕生します。
そして村田珠光(むらたじゅこう)によって茶の湯に禅の思想が取り入れられ、豪華な道具や装飾を排除して簡素静寂な境地を重んじる「わび茶」という様式が提唱されました。
その後、武野紹鴎(たけのじょうおう)を経て、戦国時代の茶人である千利休(せんのりきゅう・1522年~1591年)がわび茶を発展させ、現在の茶道が完成しました。
江戸時代(1603年~1868年)には、茶道は武士の嗜み(たしなみ)として当然のものとなりました。
茶道の道具とは?
茶道には様々な道具があります。
茶碗(ちゃわん)
抹茶をいただくときの器です。
棗(なつめ)
抹茶を入れておく容器です。
茶杓(ちゃしゃく)
抹茶をすくう道具です。
茶筅(ちゃせん)
抹茶を点てるときにかき混ぜるための道具です。
水差し(みずさし)
お茶の席で必要な水を入れておく道具です。
釜(かま)・茶釜(ちゃがま)
お湯を沸かすための道具です。
柄杓(ひしゃく)
釜や水差しから水をくむための道具です。
袱紗(ふくさ)
茶道では袱紗は、茶筅や茶碗を清めるための道具です。服紗や帛紗とも表記します。
熱くなっている茶釜の蓋を取るときにも使うこともあります。
扇子(せんす)
挨拶や礼儀のために持ちます。
手に持つか、畳の上に置いておくだけで、仰ぐことはありません。
懐紙(かいし)と懐紙入れ(かいしいれ)
懐紙とは、お菓子を乗せるための紙です。
懐紙入れは、懐紙をいれておく道具です。
茶道の作法とは?
茶道の作法は流派によって細かく異なりますが、基本的には以下のリンク先のとおりとなりますので御覧ください。
流派の違いをわかりやすく解説
茶道の流派はいくつもありますが、ここでは千利休を祖とする「千家流(せんけりゅう)」について解説します。
「千家流」は、最初はひとつの流派でしたが、長い年月の間に分裂を繰り返し、現在は500以上もあるといわれています。
代表的な流派は「三千家(さんせんけ)」と呼ばれる以下の三つの流派です。
- 表千家(おもてせんけ)
- 裏千家(うらせんけ)
- 武者小路千家(むしゃこうじせんけ)
いずれも千利休の孫である千宗旦(せんのそうたん・1578年~1658年)の子どもが作ったもので、「千家流」から生まれた流派です。
それぞれお茶の点て方や所作が異なります。
とはいえ、お茶の精神は同じであり、大きな違いはないものとされています。
茶道人口は最盛期には500万人以上いたといわれており、三千家にも多く門弟がいましがたが、現在ではその数は大きく減少しています。
現在の茶道人口は、流派が数多くあり正確な人数を把握できないそうですが、200万人足らずといわれています。
茶道人口とは「なんらかの形で茶道を学んだ人」のことで、どこかの流派に正式に入門してお茶を学ぶ人だけではありません。
たとえば、学校の茶道部で学ぶ人や、カルチャースクールで学ぶ人なども含まれているため、その人たちがどの流派で何人いるのかまで把握できないそうです。
三千家の中では裏千家の茶道人口が最も多く、全体の半分ほどだそうです。
表千家は裏千家の半分ほど、武者小路千家が最も少ないですが、いずれも正確な数字はわからないようです。
三千家をひとつずつ解説します。
表千家
千宗旦の三男、江岑宗左(こうしんそうさ・1613年~1672年)が作りました。
古くからの作法を忠実に守っているのが特徴です。
伝統に重きを置き、着物は華美なものを避けて控えめなものを選び、道具は質素なものを好みます。
表千家が出来たころ、茶室が表通りに面していたころから「表千家」と呼ばれるようになりました。
表千家では「茶道」を「さどう」と読むのが一般的です。
裏千家
千宗旦の四男、仙叟宗室(せんそうそうしつ・1622年~1697年)が作りました。
時代に合わせた風潮を積極的に取り入れるのが特徴です。
着物や道具は華やかなものを好みます。
現在は茶道の代表的な流派として、三千家の中では茶道人口が最も多いです。
裏千家が出来たころ、茶室が表千家の裏通りに面していたことから「裏千家」と呼ばれるようになりました。
裏千家では「茶道」を「ちゃどう」と読むのが一般的です。
武者小路千家
千宗旦の次男、一翁宗守(いちおうそうしゅ・1605年~1676年)が作りました。
無駄のない合理的な所作が特徴です。
千利休が始めた茶道に重きを置く点は表千家に近く、三千家の中で最も保守的といわれています。
武者小路千家が出来たころ、茶室が武者小路という通りにあったことから「武者小路千家」と呼ばれるようになりました。
武者小路千家では「茶道」を「さどう」「ちゃどう」どちらでも読みますが、基本的に「茶の湯」といいます。
表千家・裏千家・武者小路千家の違い
三千家の作法の違いは以下のとおりです。
茶室への入り方が違う
表千家は、茶室には左足から入ります。
裏千家は、茶室には右足から入ります。
武者小路千家は、茶室には柱側の足から入ります。
畳の上の歩き方が違う
表千家は、一畳を6歩で歩きます。
裏千家は、一畳を4歩で歩きます。
武者小路千家は、一畳を6歩で歩きます。
茶室を出方が違う
表千家は、入出時とは逆の右足から出ます。
裏千家は、入出時とは逆の左足から出ます。
武者小路千家は、特に決まりがありません。
座り方が違う
表千家は、男性は安定する広さで両膝をあけて座り、女性は両膝をこぶしひとつ程度あけて座ります。
裏千家は、男性はこぶし二つ分ほど両膝をあけて座り、女性は両膝をこぶしひとつ分あけて座ります。
武者小路千家は、男性はこぶし一つ分両膝をあけて座り、女性は足を閉じて座ります。
お辞儀の仕方が違う
表千家は、八の字の形に手をつき、30度ほどの角度でお辞儀をします。
裏千家は、
おなかが膝につくほどの丁寧なお辞儀である「真(しん)」
前に身体をかがめるほどのお辞儀である「行(ぎょう)」
軽くお辞儀をする「草(そう)」
という3種類のお辞儀を使い分けます。
武者小路千家は、左手が前になるように両手を合わせ、軽く指先を畳みにつけてお辞儀をします。
袱紗の色が違う
表千家は、男性は紫色、女性は朱色です。
裏千家は、男性は紫色、女性は赤色です。
武者小路千家は、男性は紫色、女性は朱色です。
お茶の点て方が違う
表千家は、あまり泡が出来ないよう、泡のない部分が半月状になるように点てます。
裏千家は、細かい泡を作るよう、表面全体が細かい泡で覆われるように点てます。
武者小路千家は、あまり泡を作りすぎないように点てます。
茶筅が違う
表千家は、囲炉裏の煙でいぶされた煤竹(すすだけ)の茶筅を使います。
裏千家は、青竹を太陽にさらして白くした白竹(はちく・しらたけ)の茶筅を使います。
武者小路千家は、竹林に生えている時から渋い紫色をした紫竹(しちく)の茶筅を使います。
いかがでしたか?
茶道には数えきれないほどの流派がありますので、これから茶道を始める場合はお稽古を見学してみると良いかもしれません。
その流派の作法や、教室の雰囲気、先生や先輩たちとの相性などを考え、自分に合う教室を見つけましょう。
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