昭和のころは常識であり当たり前の価値観だったことが、令和の現在は通用しないことがあります。
平成以降に生まれ育った人にはびっくりされることも、昭和世代にとっては「そういえばそうだったよね」と思うことがたくさんあります。
今では考えられないような昭和の常識や価値観をご紹介します。
昭和の常識・価値観
それでは、昭和の常識・価値観を見ていきましょう。
いろいろなところでタバコが吸えた
昭和のころは、電車、飛行機、病院、映画館、職員室、公共施設、飲食店などあらゆる場所で喫煙できるのが当たり前でした。
しかし、平成15年(2003年)に健康増進法が施行されるなど、現在は喫煙できる場所が少なくなっています。
喫煙率が最も高かったといわれる昭和35年ごろ(1960年代)の成人男性の喫煙率は約80%でした。
現在の成人男性の喫煙率は約30%です。
部活中に水を飲んではいけない
「水を飲むと体が重くなる」
「水を飲むと体が冷える」
「水を飲むのは甘えだ」
などの理由はあるようですが、誰が言い出したのかは不明で、特に運動部では部活中に水を飲むことを禁止されていました。
現在は適度な水分補給は脱水症状や熱中症を避けるために必要なこととされています。
教師によるビンタやゲンコツは愛のムチ
生徒が悪いことをしてビンタやゲンコツをされても「愛のムチ」としてなにも問題にはなりませんでした。
保護者も「悪いことをしたのだからそれを注意してもらえてありがたい」とか「うちの子が悪いことをしたら殴って欲しい」と思っている人が多かったです。
現在は、体罰は禁止されていますし、大問題になります。
ヘルメット無しでバイクに乗れた
昭和40年(1965年)に高速道路でバイクのヘルメット着用努力義務となる前は、ヘルメット無しでバイクに乗れました。
その後いくつかの段階を経て、昭和61年(1986年)に原付も含めたすべてのバイクがすべての道路でヘルメットの着用が義務化されました。
シートベルトなしで車に乗れた
昔は、シートベルトなしで車に乗れました。
昭和46年(1971年)に高速道路を走行する際、運転席のシートベルト着用が努力義務となりました。
しかし、罰則はなく一般道ではシートベルトなしで車に乗れました。
罰則が発生するようになったのは昭和60年(1985年)に高速自動車道・自動車専用道で運転席・助手席でのシートベルト着用義務化されてからです。
その後、平成4年(1992年)に一般道での運転席・助手席のシートベルトが義務化されるなど段階を経て、平成20年(2008年)にはすべての座席においてシートベルトの着用が義務化されました。
正月はほとんどのお店が閉まっていた
昭和のころは正月三が日はほとんどのお店が閉まっていました。
そのため、年末に家族総出で買い出しに行き、正月三が日は買い物をしなくても過ごせるよう準備していました。
しかし、平成8年(1996年)に大手スーパーのダイエーとイトーヨーカドーが全国規模で元日営業を開始し、その後、他社も元日営業をするようになりました。
現在は、初売りセールを正月三が日に行うお店も多くなっています。
駅の改札では駅員さんが切符を確認
駅の改札には駅員さんが立っていて、改札を通る際に乗客はきっぷを渡し、駅員さんは乗車可能なきっぷかを確認して、きっぷ専用のハサミで切り込みを入れてから乗客に返すということをひとりひとりに行っていました。
明治5年(1872年)に鉄道が創業したときからきっぷが使われており、当初からハサミで駅員さんが切り込みを入れるスタイルでした。
日本初の自動改札機は昭和42年(1967年)で、現在の阪急電鉄が定期券専用の自動改札機を設置され、昭和46年(1971年)に札幌市営地下鉄が通常の切符対応の自動改札機を導入しました。
大都市圏を中心に自動改札機の導入が進み、1990年代後半になると大都市圏以外でも導入されるようになり、2000年代以降になるとICカードの自動改札機が導入されました。
現在も有人改札の駅があり、駅員さんがきっぷにハサミで切り込みを入れたりスタンプを押していますが数はとても少なく、自動改札機を導入している駅がほとんどです。
ペットの犬猫は基本的に外飼い、餌は基本的に残飯
昭和のころは、ペットの犬や猫は基本的に家の外で飼われ、餌は基本的に残飯でした。
その後、住環境が変化したことで、室内で飼える小型犬の需要が増え、家族の一員として室内で飼うことが一般的になりました。
また、ペットの健康面に気を遣う人が増え、ペットフードが販売されるようになりました。
現在は、犬も猫も基本的に室内飼いで、ペットフードで栄養管理をするのが一般的です。
卒業アルバムには住所電話番号が載っていた
昭和の卒業アルバムには、卒業生の写真と名前のほかに、住所や電話番号が載っていました。
学校によっては進学先、就職先を書くこともあったようです。
平成17年(2005年)に個人情報の保護に関する法律が全面施行され、それ以降、卒業アルバムに住所や電話番号を載せなくなりました。
現在は、卒業生の写真と名前以外は載せないのが一般的です。
土曜日は午前中授業、給食無しで帰宅
昭和の学校や会社などは、土曜日は午前中だけ授業・仕事をして、ランチや給食無しで帰宅するのが当たり前でした。
これを「半ドン」と呼びました。
全国の公立校では
平成4年(1992年)9月に毎月第二土曜日が休み
平成7年(1995年)4月からは月に2回土曜日が休み
平成14年(2002年)4月から完全週休二日制
になりました。
会社などでも完全週休二日制が普通になったことから「半ドン」という言葉は使われなくなりました。
子どもが酒やタバコを買えた
昭和のころは、子どもだけでお店や自動販売機で酒やタバコを買うことができました。
もちろん、当時も未成年者の飲酒喫煙は法律で禁止されていましたが、家の人におつかいを頼まれて買いに来ていると思われていたので、誰も咎めることはありませんでした。
平成12年(2000年)に「未成年者喫煙禁止法及び未成年者飲酒禁止法の一部を改正する法律」が制定され、酒やタバコの販売者は未成年者の喫煙飲酒を防止するために、販売する際には年齢確認などを行うことが義務付けられました。
現在は、子どもが酒やタバコを買うことはできません。
学校に焼却炉があった
昭和のころは、どこの学校にも敷地内に焼却炉がありました。
掃除の時間に焼却炉までゴミを持っていき、焼却して処分しました。
しかしゴミを焼却する際に出る有害物質が問題となり、平成9年(1997年)に文部省の通達によって学校の焼却炉は使用禁止になりました。
現在は、学校のゴミは主に事業系ゴミとして処理されています。
事業系ゴミとは、学校、福祉施設、お店、会社などの事業活動から生じたゴミのことです。
駅に伝言板があった
昭和の駅には、伝言板が設置されていました。
「〇〇駅に15時集合」と待ち合わせをしても、諸事情で会えないことも多々ありました。
そのため、例えば先に来た人が
「Aさん、先に行きます。Bより」
とか
「Aさん、駅近くの喫茶店で待っています。Bより」
などと伝言板に書き連絡を取ったのです。
80年代後半から90年代前半にポケットベルが流行し、その後、携帯電話が普及したため、伝言板ではなく本人に直接連絡を取れるようになりました。
そのため2000年になるころにはほとんどの駅で伝言板は姿を消しました。
公衆電話がとても多かった
昭和のころは、街のいろんなところに公衆電話がありました。
10円玉や100円玉で利用できた公衆電話ですが、昭和57年(1982年)にテレフォンカード対応の公衆電話が登場します。
テレフォンカード(テレカ・テレホンカード)とは、公衆電話で使えるプリペイドカードです。
90年代後半に携帯電話が普及すると、公衆電話の利用が減っていき、現在は公衆電話の数はとても少なくなっています。
しかし、公衆電話は災害時に優先的につながるようになっており、電話回線で電力を供給しているので停電時でも使うことができるため、設置がゼロになることはありません。
公衆電話の使い方も知らないという人もいるようですので、災害時の時慌てないように、練習をしておくと良いかもしれませんね。
自宅と恋人や友達の電話番号は暗記が当たり前
昭和のころは、電話番号は手帳などに書いて管理していました。
そのため、特によく電話をかける電話番号はいつの間にか暗記をしていました。
手帳を忘れても外出先で電話をかけるため暗記が当たり前でした。
現在は、携帯電話やスマートフォンに電話番号を登録することができるので、自分の電話番号を覚えていない人も少なくないようです。
ダイヤルを回す黒電話
昭和の電話といえば、ダイヤルを回す黒電話です。
昭和44年(1969年)にプッシュ式の電話機も発売されますが、家庭に置かれるのは黒電話の方が多かったようです。
昭和60年(1985年)に国営だった通信事業が民営化され、電話機のデザインや機能、カラーバリエーションなどが増え、ほとんどがプッシュ式になりました。
携帯電話やスマートフォンが普及したため、現在は、固定電話を置いていない家庭も増えています。
クラスの連絡網があった
昭和の学校では、クラスの連絡網というものがあり、緊急時にクラス全員に連絡を回すために用いられました。
連絡網にはクラス全員の名前と電話番号が載っており、数人ずつのグループが作られていました。
学校からグループの一番目に連絡がいくと、一番目の人から二番目へ、二番目の人から三番目へ・・・という風に連絡が回っていくようになっていました。
平成17年(2005年)に個人情報の保護に関する法律が全面施行され、それ以降、クラス全員の情報が載る連絡網は姿を消しました。
現在は、携帯電話やスマートフォン、パソコンなどに学校から保護者へメールで連絡するようになっています。
家庭訪問
昭和の小学校では、新年度になると担任教師による家庭訪問が行われていました。
家庭訪問は、
・担任教師が家の場所を把握するため
・地域や家庭の様子を知るため
・生徒が家庭でどのように過ごしているのかを知るため
・保護者の要望などを聞くため
などの目的がありました。
平成の終わりごろからは共働き家庭が増えたため、保護者の負担軽減や時間短縮などを理由に家の中には入らず玄関先だけで済ませたり、家庭訪問そのものを廃止する学校も増えてきました。
また、令和2年(2020年)のコロナ禍に家庭訪問を中止した学校も多く、現在も家庭訪問を中止したままだったり、玄関先で5分程度で済ませるなどしている学校がほとんどのようです。
テレビは一家に一台、チャンネル争い勃発
昭和28年(1953年)に白黒テレビが販売され、昭和35年(1960年)にカラーテレビが販売されました。
当時、テレビはとても高価なものだったので、一般家庭で置いている人はほとんどおらず、公園や駅など人が集まる場所に設置された「街頭テレビ」を見ていました。
昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催で一般家庭へのテレビの普及が進みますが、テレビが高価だったため一家に一台が一般的でした。
家族が集まる居間にテレビが置かれ、家族で観たい番組が異なるとチャンネル争いが勃発することも珍しくありませんでした。
現在もテレビは高価な家電ですが、大量生産されるようになったことやメーカーの努力によって安価なものも販売されるようになりました。
子ども部屋にもテレビを設置したり、テレビが無くてもパソコンやスマートフォンで好きな時に好きな番組を観ることができます。
雑誌の文通コーナーに住所氏名が載っていた
昭和のころは、雑誌に「文通コーナー」というものがありました。
文通相手を募集するために住所氏名が載っていました。
いつごろからか明確にはわかりませんが、個人情報保護の観点から住所氏名を載せることがなくなり、文通コーナーも姿を消しました。
現在は、SNSなどで交流することができるため、文通をしている人はめっきり減っています。
しかし、文通の文化を残したいということで、個人情報を一切出さずに文通が出来る仕組みがあり、利用者も多いようです。
カラオケは分厚い本から曲探していた
昭和のころのカラオケは、「歌本(うたぼん)」と呼ばれる分厚い本から曲を探していました。
歌本には、曲名や歌手名のほか、歌詞の出だしが載っており、カラオケを入力するときに必要な番号が載っていました。
その本に書かれている番号をカラオケの機械に打ち込むと、カラオケができる仕組みでした。
現在は、タッチ操作できるリモコンで曲を探し、選曲をすることができます。
平成以降に生まれた方にはもちろん、昭和世代にとっても、今では考えられないものばかりですよね。
そんな時代があったなんて、今考えると面白いですよね。
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