富山の薬売りの歴史とは?現在もあるの?紙風船がおまけだったのはなぜ? 

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富山といえば「薬売り」が有名ですよね。

昭和世代であれば「置き薬」や、おまけの「紙風船」を懐かく思い出すという方もいらっしゃるのではないでしょうか?

そんな、富山の薬売りの歴史はいつ始まったのでしょう?

また、現在どうなっているのでしょうか?

今回は、富山の薬売りについて解説します。

 

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目次

富山の薬売りとは?

読み方は「とやまのくすりうり」です。

 

「越中富山(えっちゅうとやま)の薬売り」

「富山売薬(ばいやく)」

などの呼び方もあります。

「富山の薬売り」とは、富山県を拠点として日本各地へ置き薬を販売すること、またはその販売員のことをいいます。

富山の薬売りは一般家庭や会社などに販売員が訪問して置き薬(配置薬)を置いていき、後から使った分の代金を回収するというビジネスモデルです。

 

富山の薬売りの薬の販売方法は以下のような流れになっています。

①販売員が各家庭や会社を訪問し、薬を置かせてもらう

販売員は、

「配置員」

「富山の薬屋さん」

「売薬さん(ばいやくさん)」

とも呼ばれ、各家庭や会社と契約をし、置き薬を置かせてもらいます。

契約金、年会費などは無料です。

 

置き薬は「配置薬(はいちやく)」とも言います。

薬を入れる箱を

「配置箱(はいちばこ)」

「預け箱(あずけばこ)」

と呼びます。

 

②販売員が再度訪問

半年~1年後に販売員が再度訪問します。

使用した薬の分だけお金を支払ってもらい、その分の薬を補充します。

販売員は、薬を販売するだけでなく、薬を使う人たちの健康アドバイスを行うこともあります。

富山の薬売り独特の販売の仕方を「先用後利(せんようこうり)」といいます。

「まず初めにお客さんに薬を預け、次に訪問したときに使用した分の代金を支払ってもらう」という意味で、このシステムは、現金収入が少なかった時代にはとても喜ばれ、富山の薬売りが長年続いていく理由のひとつになっています。

また、近所に医者がいないため、病気で亡くなることが多かったこの時代に、富山の薬売りは人々の健康増進に大いに貢献しました。

 

富山の薬売りの歴史とは?

富山の薬売りの歴史は江戸時代(1603年~1868年)にさかのぼります。

1639年、加賀藩から分れて富山藩が誕生しました。

富山藩が誕生した当初、財政難だったことから、安定した経済基盤を作るためにさまざまな産業を奨励されました。

前田正甫

前田正甫

その中に薬の製造、売薬があり、富山藩二代目藩主である前田正甫(まえだまさとし・1649年~1706年)が薬の研究を進めました。

そして、持病の腹痛のときにいつも服用していた「反魂丹(はんごんたん)」という万能薬の作り方を岡山藩の医師から教わり、富山藩でも作るようになりました。

出典:池田安兵衛商店

その後、1690年に前田正甫が参勤交代で江戸城にいた際、腹痛を起こした三春(福島県)藩主の秋田輝季(あきたてるすえ)に「反魂丹」を服用させたところ、腹痛がたちどころに回復したそうです。

このことに驚いた他の大名から薬の販売を頼まれたことで、富山の薬が有名になったといわれています。

そして、前田正甫が「反魂丹」を広めるために各地に薬箱を設置したことが「置き薬・配置薬」の始まりといわれています。

関所

関所

富山の薬売りが有名になった別の理由として、富山城下の薬業者の商売を保護したことが要因して上げられます。

当時は日本各地に関所(せきしょ)が設けられていたので、藩を出るには許可が必要で、自由に別の藩に移動することはできませんでした

そんな中、前田正甫は、富山藩から自由に出て日本全国どこの藩でも商売することを許しました。

そのような経緯から、富山藩から日本全国に行商人が富山の薬を販売するようになり、富山の薬売りは日本中に知られるようになったのです。

ちなみに、富山藩から自由に出ていけることから、忍者が富山の薬売りに扮していたとか、スパイとして日本各地の情報を富山藩に報告していたといわれているそうですが、真相は不明です。

明治時代(1868年~1912年)になると西洋医学が盛んになったことにより、富山の薬売りは苦境に立たされました。

明治政府は西洋化を進めるために、従来の伝統的な「和漢薬(わかんやく)」を「無害で効果がない」として規制をかけ始め、富山の薬も規制の対象となってしまったのです。

そこで、富山の薬業界が結束して、明治9年(1876年)に「売薬結社廣貫堂(ばいやくけっしゃこうかんどう・現在の株式会社廣貫堂)」を設立し、人材の育成や売薬の近代化に努めた結果、大正時代になると政府も「和漢薬は無害で効果がある」と認め、富山の薬売りは海外に販路を広げるなどして着実に成長していきました。

また、近代化に努める中で薬業教育、配置員養成を目的とした薬学校「共立富山薬学校」を設立し、現在の国立富山大学薬学部として受け継がれています。

置き薬産業は、昭和20年代後半~30年代にかけて最盛期を迎えます。

その当時は、全国のおよそ6割の家庭に置き薬があったそうですよ。

 

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富山の薬売りは現在もあるの?

現在も富山の薬売りはあります。

しかし、薬局やドラッグストアで手軽に薬を購入できるようになったことなどから置き薬を利用しない家庭が増え、現在は置き薬がある家庭は3割程度のようです。

また、富山の薬売りと同じように置き薬・配置薬を取り扱っている会社は富山以外にも複数あり、いずれも電話やインターネットなどで資料請求や申し込みができます。

 

紙風船がおまけだったのはなぜ?

富山の薬売りといえば「紙風船」のおまけを思い出すという人もいらっしゃるのではないでしょうか?

「紙風船」をおまけとして渡すようになったのは江戸時代です。

おもちゃが少なかった時代、子どもたちが楽しく遊べる紙風船は人気がだったそうです。

最初は薬の包み紙を使って紙風船を作って渡していました。

子どもたちは将来的に薬を買ってくれる顧客となるので、子どもたちと信頼関係を築くために紙風船を渡してコミュニケーションをとり、喜んでもらうことは大切なことだったようです。

明治時代からは、紙風船には製薬会社の名前、企業ロゴなどが描かれるようになり、広告としての役目も果たすようになりました。

 

大人に人気があったおまけは、「売薬版画(ばいやくはんが)」です。

売薬版画とは、江戸で人気の歌舞伎役者、江戸の風景画、江戸の名所、浮世絵、福の神などを描いた小さな版画です。

江戸で人気のものを地方にいても知ることができるということで大変人気があり、江戸の情報や文化を地方に伝える役割もありました。

 

昔はお得意様に輪島塗や若狭塗のお箸、九谷焼の湯飲み茶わんなどを「おまけ」として渡すこともあったそうですが、現在は、薬業界の取り決めにより高価なものを渡すことはなくなったそうです。

現在も紙風船をおまけとして渡しており、キティちゃんなど人気キャラクター、鯉のぼりや金魚、スイカなど季節に関するもの、お城などの名所、富山の薬売りの歴史などが描かれています。

いかがでしたでしょうか?

使った分だけ後から清算すれば良いという販売方式も、「まずは病を治しなさい」といわれているようで安心できますよね。

いつ必要になるかわからない薬を複数準備しておくのは家計に負担がかかります。

富山の薬売りは昔ながらの販売方式を続けているため、安心して備えることができますね!

 

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