神道

横綱の語源や由来その意味とは?大関との違いについて


 

相撲というとどんなイメージがありますか?

子どもの頃、ちびっ子相撲をしていたよ!という人や、大相撲を観に行くのを楽しみにしているよ!という人もいらっしゃるでしょう。

ところで、横綱の語源をご存知でしょうか?日本文化のあるものが由来しているそうです。

今回は相撲や横綱の起源や歴史、横綱と大関との違いなどについても調べてみました!

 

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相撲の起源や歴史とは?

相撲の歴史はとても古く、神話の時代にまでさかのぼるといわれております。

古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にも相撲の取り組みと考えられる力比べの話が出てきます。

 


 

古事記では、「建御雷神(たけみかずちのかみ)」「建御名方神(たけみなかたのかみ)」という二人の神様が力比べをしたと記されています。

神話の時代、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が出雲の国を自分の領土にしようと建御雷神を使わし、出雲の国の大国主命(おおくにぬしのみこと)に「領土を差し出すか、国を滅ぼされるか」の二択を迫ります。

その話を聞いた大国主命の息子のひとり建御名方神(たけみかずちのかみ)が建御雷神(たけみなかたのかみ)に力比べを挑み、出雲の国を守ろうとしますが負けてしまい、その時の傷がもとで命を落としたというものです。

 


 

日本書紀では、大和国の「当麻蹴速(たいまのけはや)」という怪力の持ち主と出雲国の力自慢の「野見宿禰(のみすくね)」という男二人の対決の話が出てきます。

現在の相撲とは異なり、お互いに蹴りあうことで決着をつけるもので、野見宿禰(のみすくね)の蹴りにより肋骨や腰の骨を砕かれ、当麻蹴速(たいまのけはや)は亡くなりました。

そして、当麻蹴速の土地は没収され、野見宿禰の土地となったといいます。

 

「相撲(すもう)」の語源は、争うという意味の「争ひ(すまひ)」が「すまふ」となり、「すもう」となったという説があります。

また、「すまひ」は「相舞」と書くこともあったようで、神様に捧げるための舞だったのではないかという説もあります。

 


 

最初のころ相撲は、農作物の収穫を占う儀式や感謝の儀式として行われており、神事として行われていたようです。

 

奈良時代(710年~794年)には、聖武天皇(しょうむてんのう・第45代天皇)が、日本書紀の当麻蹴速と野見宿禰の故事にちなみ、734年7月7日に諸国から相撲人を集め宮中で相撲を取らせました。これが天覧相撲の最も古い記録です。

後に、この天覧相撲は「相撲節会(すまひせちえ)」という宮中の公式行事となり、毎年7月に開催され、およそ400年続きました。



相撲節会


鎌倉時代(1185年~1333年)になると源頼朝が相撲を奨励しました。

この頃の武家社会では神事としてよりも武士が心身鍛錬や戦闘訓練を目的として相撲が行われるようになり、「武家相撲(ぶけすもう)」と呼ばれました。

1189年、源頼朝は鶴岡八幡宮で上覧相撲(じょうらんずもう・将軍が観戦する相撲)を開催するなど相撲が盛んに行われました。

 

室町時代(1336年~1573年)には各地の大名が相撲の強いものを家臣として取り立てたり、相撲見物を楽しむようになり、中でも相撲が大好きだった織田信長(おだのぶなが)は各地から力士を集め、相撲を楽しみ、土俵の原型を考案したといわれています。

 


 

江戸時代(1603年~1868年)になると相撲を職業とする人たちが現れ、「勧進相撲(かんじんずもう)」が行われるようになります。

勧進相撲とは、神社や寺の修繕、建築の募金を目的とした相撲のことで、江戸、大坂、京都を中心に日本各地で行われていました。

この勧進相撲が現在の「大相撲(おおずもう)」の原型と考えられており、庶民の楽しみのひとつになっていきました。

その後、大相撲としてさまざまなルールが決められ、スポーツとしての形態を整えていきました。

 

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横綱の語源とその意味とは?

横綱の読み方は「よこづな」で、大相撲の番付の最高位の称号です。

横綱の語源は、その地位の者だけが身に付けることを許された「白麻で編んだ太いしめ縄」だといわれています。

しめ縄は神の領域を示す結界の意味があり、そのしめ縄を横に張って領域を分けているので「横綱」と言うそうです。

そして、神社の聖域を表す紙垂(しで)をぶらさげることで「しめ縄」をイメージさせました。

「横綱」が力士の称号として登場するまで、力士の最高位は「大関」でした。

もともと「横綱」は力士の番付を指すのではなく、綱そのもののことを指しており、大関の中でも優れた人物だけが「横綱」を締めることを許されました。

そして、横綱を締めて土俵入りすることを許された力士を横綱と呼ぶようになったのです。

 

その後、相撲の家元といわれる吉田司家(よしだつかさけ)の19代目、「吉田追風(よしだおいかぜ)」は大関の中で優れた人物に「横綱」という免許を与えることを考え、寛政元年(1789年)から横綱免許状を授与するようになりました。

これは、デモンストレーションのためだとか、家元としての権力を見せ付けるためだという説がありますが、明確な理由はわかっていません。

1789年に「谷風梶之介(たにかぜかじのすけ)」「小野川喜三郎(おのがわきさぶろう)」に横綱免許状を与えました。



小野川喜三郎


「横綱」という称号が正式に大相撲の最高位の称号として明文化されたのは、明治42年(1909年)のことです。

「谷風梶之介」は4代目の横綱といわれていますが、初代横綱の「明石志賀乃介(あかししがのすけ)」、2代横綱の「綾川五郎次(あやがわごろうじ)」、3代横綱の「丸山権太左衛門(まるやまごんだざえもん)」は実体がなく伝説上の横綱ともいわれています。

 

日本相撲協会は「明石志賀乃介」を初代横綱として認定していますが、記録が残っているのは4代横綱とされる「谷風梶之介」で、こちらを実質的な初代横綱と考える人もいます。

 

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大関との違いについて

横綱が最高位の称号で、その次が大関ですが、先述の通り、大関の中でも優れた人物だけが「横綱」を締めることを許されます。

 


 

大関から横綱になるには「大関の称号で、二場所連続優勝をするか、これに準ずる成績を収める」という条件があります。

さらに、相撲の成績だけではなく品格や力量、人間的に優れているかなどが考慮され、相撲協会や横綱審議委員会などが話し合って決めます。

横綱はすべての力士を代表する存在であり、神様の依り代(よりしろ・神が憑依する、よりつくもの)とされているので、相撲の成績だけでは決めらないのです。

 

横綱が締める綱は、横綱昇進時に作られ、以降東京場所ごとに作り直されます。綱を作る作業を「綱打ち式(つなうちしき)」と呼び、横綱が所属する部屋の力士が総動員で行います。

 

横綱だけが行えるものに「奉納土俵入り」があります。

横綱になって初めて土俵入りを披露するのが、明治神宮で行われる奉納土俵入りです。

また、毎年1月に明治神宮で行われるほか、春巡業や国家関連の行事やイベントとして出雲大社や靖国神社などでも執り行われます。

横綱は、他の力士よりも堂々とした風格がありますよね。

横綱になるためには、相撲の成績だけではなく人としてどういう存在なのかも考慮されるということですので、人として優れていないと横綱にはなれない・・・ということですよね。

横綱として認められるというのは、並大抵の努力ではできないことなのだと思いますから、さまざまなことを乗り越えて横綱となった力士には、風格が漂って当然なのかもしれません。

 

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