忠臣蔵のあらすじを簡単に!本当にあった話?赤穂事件との違い

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忠臣蔵のあらすじを簡単に!本当にあった話?赤穂事件との違い

忠臣蔵は、年末の風物詩のひとつです。

歌舞伎の演目になっていたり、時代劇としてテレビで何度も放送されていたりするので、ご存知の方も多いでしょう。

忠臣蔵とはどんな話なのでしょうか?あらすじを簡単に紹介します。

また、本当にあった話なのでしょうか?

赤穂事件との違いはなんでしょうか?

 

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目次

忠臣蔵とは?

読み方は「ちゅうしんぐら」です。

「忠臣蔵」は、元禄14年(1701年)3月14日に起きた「赤穂事件(あこうじけん)」をもとにした創作作品全般を指します。

赤穂とは、現在の兵庫県赤穂市周辺のことです。

 

もともとは、1748年(寛延元年)8月に初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の通称が「忠臣蔵」でしたが、のちに歌舞伎や映画、テレビドラマなど、赤穂事件をもとにした作品全般を指すようになりました。

出典:コトバンク「仮名手本忠臣蔵」

 

浄瑠璃とは、三味線の伴奏に合わせて物語を語る芸能のことです。

人形浄瑠璃は、この浄瑠璃に合わせて人形を操って演じる人形芝居で、日本を代表する伝統芸能のひとつとなっています。

現在、人形浄瑠璃は「文楽(ぶんらく)」とも呼ばれています。大阪にあった人形浄瑠璃の劇場の名前が「文楽座」だったことが由来です。

華やかな髪飾りと着物の文楽の女の人形と、男の人形

国立文楽劇場(大阪市)の文楽の人形 写真:brickski(CC BY 2.0) 出典:Wikimedia Commons

 

現在は「忠臣蔵」というと、映画やテレビドラマの作品を指すのが一般的です。

 

本当にあった話?

忠臣蔵は、赤穂事件をもとにした創作作品ですが、赤穂事件は本当にあった話です。

「元禄赤穂事件」ともいいます。

 

元禄14年(1701年)3月14日に江戸城内の松の廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ・1667年~1701年)が、吉良上野介(きらこうずけのすけ・1641年~1703年)を脇差で切りつけ怪我を負わせました。

烏帽子をかぶり、家紋の入った着物で座る浅野内匠頭の肖像画

浅野内匠頭の肖像(花岳寺所蔵) 出典:Wikimedia Commons

屋根の下に座る、烏帽子に装束姿の吉良上野介の像

吉良邸跡(東京都墨田区両国)にある吉良上野介の像

 

脇差とは、長さが1尺(30.3㎝)以上、2尺(60.6㎝)未満の刀をいいます。

室町時代~江戸時代の武士は腰に二振りの日本刀を差しており、長い方が刀、短い方が脇差です。

刀の数え方は「振り(ふり)」で、一振り(ひとふり)、二振り(ふたふり)・・・と数えます。

腰に打刀と脇差の二振りを差した武士のイラスト

脇差は、刀を失ったり破損したりした時の予備として持っていました。

また、刀を振り回しにくい狭い場所での使用や、護身のために用いられることもありました。

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切りつけた理由は、はっきりとはわかっていません。

浅野内匠頭は、吉良上野介への「遺恨(恨み)」から切りつけたとされていますが、その中身については何も語らないまま、その日のうちに切腹しました。

そのため、切りつけた理由には次のような説があります。

  • 儀式の作法を指導していた吉良上野介に、贈り物が少なかったことなどから冷たくされたり、侮辱されたりしたという説
  • 吉良上野介が、自分の領地(いまの愛知県西尾市)の塩づくりのために、赤穂藩に製塩の技術を教えてほしいと頼んだものの断られ、その恨みから浅野内匠頭に恥をかかせたという説
  • 浅野内匠頭が病気の発作を起こした、または正気を失った(乱心)という説

 

浅野内匠頭はその日のうちに切腹を命じられ、浅野家は断絶し、家臣は浪人となりました。

浪人とは、主を失い誰にも仕えていない武士のことです。

当時は、けんかをした両方を同じように罰する「喧嘩両成敗」が原則でしたが、吉良上野介にはおとがめがありませんでした。

幕府は、吉良上野介が斬りつけられても刀を抜かなかったため、この事件を「喧嘩」としては扱わなかったそうです。

また、朝廷の使者をもてなしている最中に、刀を抜くことが禁じられていた江戸城内で騒ぎを起こしたことに、徳川綱吉が激しく怒ったともいわれています。

桜の木の下、歩道に立つ「浅野内匠頭終焉之地」の石碑

浅野内匠頭終焉の地の碑(東京都港区新橋)

 

そして、その浪人たちが主君の恨みを晴らそうと集まり、元禄15年(1702年)12月14日に吉良上野介の家へ討ち入り、首を取りました。

なまこ壁の塀と門に囲まれた吉良邸跡の本所松坂町公園

吉良邸跡(本所松坂町公園・東京都墨田区) 写真:Suginami(CC BY-SA 4.0) 出典:Wikimedia Commons

討ち入りに参加した浪人は47人で、

  • 「赤穂浪士」
  • 「赤穂義士(あこうぎし)」
  • 「四十七士(しじゅうしちし)」

と呼ばれています。

参道の両側に一列に並ぶ赤穂浪士の石像

赤穂大石神社(兵庫県赤穂市)の参道に並ぶ赤穂浪士の石像

浪人たちは浅野内匠頭の墓のある泉岳寺(東京都港区)へ行って討ち入りの報告をし、幕府の指示で処分が決まるまでの約50日間、細川家(17人)・松平家(10人)・毛利家(10人)・水野家(9人)の4つの大名家に分けて預けられました。

なかでも、大石内蔵助(おおいしくらのすけ・1659年~1703年)らを預かった細川家は、浪人たちを手厚くもてなしたことで知られています。

 

幕府は、赤穂浪士たちを打ち首にするか、助命するかで悩みました。

徳川綱吉も、浪士たちの忠義に感心し、助命したい気持ちに傾いていたといわれています。

しかし、幕府の重臣・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)の意見を取り入れました。

主君の仇を討とうとした気持ちは忠義にかなうものの、徒党を組んで屋敷に押し入ったことは法に背くと判断したのです。

そのため、罪人として首をはねるのではなく、武士の面目が立つ切腹とすることにしました。

そして、元禄16年(1703年)2月4日に、寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん・1665年~1747年)以外の46人は幕府から切腹を命じられました。

出典:コトバンク「赤穂事件」

 

寺坂吉右衛門は赤穂事件でただ一人、切腹しなかった人物として知られています。

寺坂吉右衛門が切腹しなかった理由は以下のように諸説あります。

  • 吉良邸の門前で逃亡したという説
  • 討ち入り後に泉岳寺に行く途中で姿を消したので処分の対象にならなかったという説
  • 討ち入りのことを広島の浅野家などに知らせる使者として姿を消したという説
  • 低い身分だったので切腹を免れたという説

 

これら一連の出来事を「赤穂事件」といいます。

赤穂浪士たちは泉岳寺に葬られ、後世に語り継がれています。

泉岳寺の境内に並ぶ赤穂義士の墓石と卒塔婆

泉岳寺(東京都港区)の赤穂義士の墓 写真:Hyppolyte de Saint-Rambert(CC BY-SA 4.0) 出典:Wikimedia Commons

 

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忠臣蔵のあらすじを簡単に!

「忠臣蔵」のあらすじを簡単にご紹介します。

忠臣蔵は、あくまでも赤穂事件をもとにした創作です。

 

元禄14年(1701年)、江戸城本丸御殿内大廊下(通称、松の廊下)で、赤穂藩主の浅野内匠頭が幕府高家(ばくふこうけ)の吉良上野介を脇差で切りつけました。

幕府高家とは、江戸幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職のことです。

浅野内匠頭は吉良上野介から礼儀作法の指導や指示を受けていました。

しかし、吉良上野介が違う礼儀作法を教えたり、教えを乞う浅野内匠頭に対して「田舎者は礼儀も知らない」と嫌味を言うなど嫌がらせをしました。

浅野内匠頭は我慢の限界を超え、脇差で吉良上野介の眉間と背中を切りつけました。

傷は浅く、命に別状はありませんでした。

江戸城の廊下で刀を抜いた侍が相手に切りかかり、周りの者が止めに入る場面を描いた浮世絵

松の廊下の刃傷の場面を描いた浮世絵(初代歌川国輝) 出典:Wikimedia Commons

 

この時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待していました。

そのような大事な時に江戸城内で人を切りつける事件を起こした浅野内匠頭は、五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし・1646年~1709年)の命により即日切腹となりました。

この時代、喧嘩両成敗が一般的でした。

つまり、どちらが悪いかは問わず、双方に同等の処分を与えるというのが通例だったのです。

しかし、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家はお家断絶、赤穂藩は取り潰し、赤穂城を明け渡し、領地を没収されるという厳しい処分を受けたにもかかわらず、吉良上野介には一切おとがめなしでした。

石垣の上に建つ赤穂城の大手門と隅櫓、手前に堀と橋

赤穂城の大手門と隅櫓(兵庫県赤穂市)

 

浅野家の筆頭家老であった大石内蔵助は家臣たちと話し合い、徳川綱吉の処分に対し「素直に従おう。そして、喧嘩両成敗を求めよう」と決め、赤穂城を明け渡し、吉良上野介の処罰を求めましたが、幕府の裁定は覆りませんでした。

陣羽織姿で采配を手にした大石内蔵助の石像

赤穂大石神社の境内に立つ大石内蔵助の石像

 

大石内蔵助は、主君である浅野内匠頭が理不尽な形で命を絶つことになった無念を晴らそうと、吉良上野介を討ち取ることを決意しました。

浪人となっていた家臣たち全員を強制参加させたわけではなく、本気で討ち入りたいと思っている家臣と密かに計画を実行します。

色とりどりの装束の赤穂浪士が一人ずつ名前とともに並ぶ、5枚続きの浮世絵

赤穂浪士を一人ずつ描いた歌川芳虎の浮世絵(5枚続き) 出典:Wikimedia Commons

吉良上野介は仇討ちを恐れ、大石内蔵助を家臣に見張らせており、それに気づいていた大石内蔵助は毎晩のように飲めや歌えやの大騒ぎをし「討ち入りの意志はありません」と思わせることに成功しました。

植え込みの中の台座の上で、采配を掲げる大石内蔵助の銅像

大石内蔵助の銅像(JR播州赤穂駅前)

大石内蔵助以外の家臣たちは、吉良家を探るために吉良邸の近所に店を構えたり、蕎麦を売り歩きながら吉良邸を探ったり、吉良邸を建てた大工の娘に言い寄って吉良邸の地図を手に入れたりしていました。

 

そして、討ち入りの意志を持ち続けた47人は、元禄15年12月14日の雪の夜、吉良邸の表門と裏門に分かれて討ち入ります。

雪の積もった夜、長い橋を列になって渡る浪士たちと、川辺の舟を描いた浮世絵

雪の夜、討ち入りに向かう浪士たちを描いた歌川広重の浮世絵(『忠臣蔵』十一段目) 出典:Wikimedia Commons

吉良邸には用心棒や家臣たち100人以上がいましたが、地図を手に入れていた大石内蔵助たちは戦いながら吉良上野介の寝室へたどり着きます。

雪の積もった屋敷の門を大きな木槌で破り、はしごで屋根に上る浪士たちを描いた浮世絵

屋敷の門を破って討ち入る浪士たちを描いた葛飾北斎の浮世絵(『仮名手本忠臣蔵』十一段目) 出典:Wikimedia Commons

しかし、そこに吉良上野介の姿はありませんでした。

必死に探し、夜明け前になって物置に隠れていた吉良上野介を発見し、引きずり出しました。

雪の積もった屋敷の塀にはしごを掛けて乗り込む赤穂浪士たちを描いた浮世絵

歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」(1835年ごろ) 出典:Wikimedia Commons

大石内蔵助は切腹をするよう言い、短刀を吉良上野介に差し出しますが、黙ったままで切腹をしないため、大石内蔵助が切りつけ、ついに浅野内匠頭の仇を討ち取りました。

 

朝になり、降り続いていた雪がやんで快晴の中、47人は吉良上野介の首を白い布で包んで槍に引っ掛け、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へ堂々と歩いて行きました。

雪の残る町で、槍を持った浪士たちの一行が屋敷の前で呼び止められている浮世絵

討ち入りのあと、泉岳寺へ向かう浪士たちを描いた歌川広重の浮世絵(『忠臣蔵』十一段目) 出典:Wikimedia Commons

そして、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供え、仇討ちの成功を報告しました。

石畳の参道の先に建つ二層の泉岳寺の山門

泉岳寺の山門(東京都港区高輪)

 

江戸では、町人から武士まで、主君の仇を討った赤穂浪士たちを義士(ぎし)として称賛しており、民意は助命を求めていました。

義士とは、正義や忠義のために身を賭して行動した人のことです。

しかし、討ち入りから約50日後の元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により赤穂浪士たちは切腹となりました。

赤穂浪士の希望によって、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓の近くに埋葬されました。

名前を書いた卒塔婆の前に並ぶ泉岳寺の赤穂義士の墓石

泉岳寺(東京都港区)の赤穂義士の墓

 

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なぜ年末の風物詩になった?

赤穂浪士が討ち入りをしたのは元禄15年(1702年)12月14日です。

これは旧暦の日付で、新暦にあてはめると1703年1月30日の出来事です。

しかし、討ち入りの日は伝統的に「旧暦12月14日」として受け継がれており、現在も泉岳寺や赤穂市などでは12月14日に義士祭(ぎしさい)などの行事が行われています。

義士祭とは、赤穂浪士を供養するための行事です。

提灯の明かりに照らされた夕暮れの泉岳寺の山門

義士祭の日の泉岳寺

 

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「仮名手本忠臣蔵」の初演は1748年(寛延元年)8月でしたが、物語のクライマックスとなる討ち入りが12月だったので、自然と上演が12月に集中するようになりました。

その後、人形浄瑠璃だけでなく歌舞伎や映画、ドラマなども12月に上演・上映されるようになりました。

歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の役者たちを横長に並べて描いた色鮮やかな浮世絵

歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』を描いた三代歌川豊国の浮世絵(嘉永2年・1849年、江戸中村座の上演) 出典:Wikimedia Commons

また、年末に「忠臣蔵」がテレビ放送されることが多くなり、年末の風物詩として定着しています。

映画やドラマの「忠臣蔵」はDVDで、もとになった「仮名手本忠臣蔵」は現代語訳の本で楽しむことができます。

 

 

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赤穂事件との違い

赤穂事件と忠臣蔵の違いは以下の通りです。

 

●切りつけた理由が違う

赤穂事件では、浅野内匠頭が具体的な経緯を説明しなかったこともあり、切りつけた理由は不明です。

忠臣蔵では、吉良上野介が嫌がらせをするシーンがあり、それに我慢の限界を超えた浅野内匠頭が切りかかるという、見る人にわかりやすいような脚色が加えられています。

 

●吉良上野介の人物像が違う

赤穂事件をはじめ、当時の史料では吉良上野介がどのような人物だったのかがわかっていません。浅野内匠頭にどのように接していたのかも不明です。

忠臣蔵では、浅野内匠頭を田舎者と馬鹿にしたり、違う礼儀作法を教えるなどの嫌がらせをする「嫌な人物」として描かれています。

 

●恋愛模様が描かれる

赤穂事件では、浪士たちと妻や恋人との関係は特に記録されていません。

忠臣蔵では、討ち入り前に離婚をして妻子を逃がしたり、恋人に別れを告げるシーンなどが脚色されています。

 

仮名手本忠臣蔵も話の流れは忠臣蔵と同じですが、以下のように違いがあります。

 

●舞台となる時代が違う

「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件をもとにしていますが、舞台は室町時代(1336年~1573年)の南北朝時代(1336年~1392年)です。

 

江戸時代には、実際に起こった事件をそのまま取り上げることを幕府が禁じており、特に武家の不祥事ともいえる赤穂事件はそのまま演じることができませんでした。

そのため、赤穂事件を脚色し、本来の時代や人物名などを違う時代や人物に置き換えて演じていました。

「仮名手本忠臣蔵」は、南北朝時代の騒乱を描いた太平記(たいへいき)の世界観を借りています。

太平記とは、南北朝時代の争乱を描いた軍記物語のことです。作者は不明で、応安年間(1368年~1375年)に成立したとされています。

 

「忠臣蔵」は、赤穂事件が起こった当時を舞台にしています。

 

●登場人物の名前が違う

「仮名手本忠臣蔵」は、登場人物を太平記の人物名に変更したり、架空の名前を付けています。

たとえば、

  • 浅野内匠頭=塩冶判官(えんやはんがん・生年不明~1341年)
  • 吉良上野介=高師直(こうのもろなお・生年不明~1351年)
  • 大石内蔵助=大星由良之助(おおぼしゆらのすけ・架空の名前)
大星由良之助を演じる歌舞伎役者を描いた浮世絵

大星由良之助を演じる五代目沢村長十郎(三代歌川豊国、1849年) 出典:Wikimedia Commons

 

「忠臣蔵」は、赤穂事件の当事者たちの名前をそのまま使っています。

 

「仮名手本忠臣蔵」はあまり馴染みのない人も多いかもしれません。

しかし、テレビドラマになった「忠臣蔵」は、特に年末に何度も再放送されているので、ご存知の方も多いでしょう。

テレビドラマだから完全なフィクションだと思っている人もいるかもしれませんが、実際に起こった江戸時代の事件がもととなっているのです。

赤穂浪士の忠義や主君への想いは現在も語り継がれています。

 

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