
源氏物語と枕草子は、どちらも千年以上愛され続ける古典ですね。
では、源氏物語と枕草子の違いとはなんでしょうか?
それぞれの作者である紫式部と清少納言は仲が悪かったという説もありますし、2人は会ったことがないという説もありますよね。
今回は源氏物語と枕草子についてわかりやすく解説します。
源氏物語とは?
読み方は「げんじものがたり」です。
平安時代(794年~1185年)中期に書かれた長編物語で、全54巻からなります。この54巻は「五十四帖(ごじゅうよじょう)」とも呼ばれます。
帖(じょう)は、紙を蛇腹のように折りたたんで作った本などを数える単位です。
原本は残っておらず、現在読むことができるのは後世に書き写された写本です。
出典:コトバンク「源氏物語」
作者は「紫式部(むらさきしきぶ)」です。
貴族である藤原宣孝(ふじわらののぶたか・生年不明~1001年)の妻のひとりです。
本名や生没年はよくわかっておらず、973年ごろに生まれ、1014年ごろに亡くなったという説が知られています。

鳥居清長「紫式部」(江戸時代18世紀、東京国立博物館) 出典:ColBase
紫式部の「紫」は、
- 源氏物語に登場する「紫の上」という女性が由来という説
- 実家の姓である「藤原」の「藤」から紫を連想したことが由来という説
があります。
「式部」は、父親の藤原為時(ふじわらのためとき・949年ごろ~1029年ごろ)が式部省(しきぶしょう)の役人だったことが由来といわれています。
式部省とは、文官の人事や朝廷の儀式、さらに官僚の養成機関などを統括していた官庁です。
この時代の女性は、父親や配偶者など身内の男性の役職で呼ばれるのが一般的でした。
また、一条天皇(いちじょうてんのう・第66代天皇)の妻のひとりである彰子(しょうし、あきこ・988年~1074年)に仕えていました。

一条天皇の肖像 出典:Wikimedia Commons
源氏物語は、主人公である光源氏(ひかるげんじ)の誕生から、その死後の次世代まで、およそ70年~80年にわたる貴族社会が描かれています。
紫式部が宮中に仕え、日常的に宮中の内情に接していたからこそ、源氏物語をリアルに書けたのだといわれています。
また、紫式部は和歌の名手のひとりで、源氏物語には795首ほどの和歌が登場します。
紫式部の有名な和歌は、小倉百人一首にも選ばれている以下のものです。
「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」
この歌は、昔からの幼馴染であった人と久しぶりにあったものの、すぐに帰ってしまった時のことを、雲に隠れてしまう月に重ねて詠んだ歌といわれており、
「久しぶりに巡り会って、それかどうかも見分けがつかないうちに、雲にかくれてしまった夜中の月。その月のように、あなただと見分ける間もないほど、あわただしくあなたは帰ってしまいましたね。」
という意味になります。
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そのほか、宮中での日々を記した「紫式部日記」や和歌集である「紫式部集」などを残しています。
枕草子とは?
読み方は「まくらのそうし」です。
平安時代中期に書かれた随筆(ずいひつ・エッセイ)です。
原本は残っておらず、写本によって内容や構成が異なるため、正確な巻数はわかっていません。
いま最も広く読まれているのは、「三巻本(さんがんぼん)」と呼ばれる写本です。
もともと3冊に分けて書き写されていたことから、この名前が付きました。
全体は、1つずつ独立した短いエッセイのような文章が、300あまり集まってできています。
この一つ一つの文章を「段(だん)」と呼びます。
たとえば、「春はあけぼの」で始まる文章が第1段です。
出典:コトバンク「枕草子」
作者は「清少納言(せいしょうなごん)」です。
貴族である橘則光(たちばなののりみつ・965年~没年不明)の妻であり、その後、藤原棟世(ふじわらのむねよ・生没不明)とも関係を結んだようですが、正確な婚姻状況については不明です。
本名や生没は不明で、966年ごろに生まれ、1025年ごろに亡くなったといわれています。

土佐光起「清少納言図」(江戸時代17世紀、東京国立博物館) 出典:ColBase
清少納言の「清」は、実家の姓である「清原」が由来です。
父親は有名な歌人である清原元輔(908年~990年)です。

宣房本三十六歌仙絵「清原元輔」(鎌倉時代14世紀、東京国立博物館) 出典:ColBase
「少納言」は、
- 橘則光の親族に少納言の役職がいたという説
- 中宮である定子(さだこ、ていし・976年~1001年)が優れた才能を認めて特別に付けた名前という説
があります。
清少納言は、一条天皇の妻のひとりである中宮定子に仕えていました。
枕草子は、中宮定子から大量の紙をもらったことがきっかけで書かれたといわれています。
当時、紙はとても貴重なものでした。
中宮定子が兄の藤原伊周(ふじわらのこれちか・974年~1010年)から紙を贈られた際、「これに何を書けば良いのかしら」と清少納言に尋ねたところ「枕でございましょう」と即答しました。
中宮定子は「それならあなたにあげましょう」と、大量の紙を清少納言に渡したそうです。
この時の「枕」が「枕草子」の由来になったといわれていますが「枕」にどのような意味があるのかは不明です。
また、「草子」は、紙を綴じた本の総称で、冊子という意味です。
枕草子を書いている最中、中宮定子は政治的に追い込まれ、定子一族は没落してしまい、定子も亡くなります。
そんな中、清少納言は中宮定子の苦悩や悲壮感にはあまり触れず、定子がいかに知的で素晴らしい女性だったかを書きました。
枕草子は日常をつづったエッセイというだけでなく、中宮定子の素晴らしさを後世に残すために書かれたともいわれています。
源氏物語と枕草子の違いとは?
源氏物語と枕草子の違いは以下の通りです。
●作者が違う
- 源氏物語は、紫式部です。
- 枕草子は、清少納言です。
●ジャンルが違う
- 源氏物語は、長編物語です。
- 枕草子は、随筆(エッセイ)です。
●内容が違う
- 源氏物語は、架空の人物である光源氏を主人公に、恋愛や結婚、出世、老い、死などを描いています。
- 枕草子は、中宮定子の事や宮中の出来事、人間観察、季節の美しさ、個人的な好き嫌いなどをつづっています。
紫式部と清少納言は仲が悪かった?
紫式部の「紫式部日記」では、
「清少納言という人は、得意顔で利口ぶり、漢字を書き散らしているが、よく見ると不十分な点が多い。また、人と違って見せようとする人は、後になって見劣りする。」
という内容があります。
出典:コトバンク「清少納言」

紫式部日記絵巻断簡(鎌倉時代13世紀、東京国立博物館) 出典:ColBase
このことから、紫式部と清少納言は仲が悪かったという説があります。
しかし、清少納言が書き残したものには、紫式部に関する記述はみつかっていません。
そのため、紫式部は清少納言の作品を読んだことがあり、一方的にライバル視していたのではないかといわれています。
清少納言が紫式部の作品を読んだかどうかは定かではありません。
2人は会ったことがない?
紫式部と清少納言の2人は会ったことがないといわれています。
二人とも一条天皇の妻のひとりに仕えていましたので、生きていた時代は同じです。
しかし、仕えている時期が違います。
清少納言は、993年ごろから中宮定子に仕え、1001年に定子が亡くなった後に宮中を去っているといわれています。
一方、紫式部が中宮彰子に仕え始めたのは1006年ごろからです。
出典:コトバンク「紫式部」
清少納言が宮中を去ってから、紫式部が宮中に仕えるようになったので、2人は同じ時期に宮中にはおらず、宮中での接点はありません。
また、2人が会ったことを裏付ける記録もないため、面識がなかった可能性が高いと考えられています。
ただし、宮中以外で2人が会ったことがないことを証明する記録もないため、面識があった可能性を完全に否定することもできません。

源氏物語と枕草子の違いがわかりましたね。
どちらも平安時代中期という同じタイミングに女性が書いたものですが、物語とエッセイというのが大きな違いでしょう。
テレビドラマなどでは、紫式部と清少納言が宮中で直接話しているシーンなどもありますが、記録からは同時期に宮中にいなかったことがわかっています。
しかし、絶対に面識がないとも言い切れませんから、千年以上愛される作品を残した2人が一緒に行動し、おしゃべりに花を咲かせていたかもしれないと考えると楽しいと思いませんか?
源氏物語と枕草子は、どちらも現代語訳の本が出ていて、書店や通販で手に取ることができます。
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