夏といえば、海水浴、キャンプ、花火大会、プールなどいろいろな楽しみがありますが、夏祭りも日本各地で開催されています。
夏休みやお盆休みに、帰省や旅行を兼ねて夏祭りに行く人も多いのではないでしょうか?
今回は、特に有名な日本の夏祭りをご紹介します。
ぜひ夏のレジャーの参考になさってくださいね!
夏祭りは何月から何月まで?
季節の分け方はいろいろありますが、ここでは気象庁が用いる気象学的な区別で考えます。
気象庁では「時に関する用語」として四季を以下のように区別しています。
「春」・・・ 3月、4月、5月
「夏」・・・ 6月、7月、8月
「秋」・・・ 9月、10月、11月
「冬」・・・ 12月、1月、2月
ということで「夏」は、6月、7月、8月となります。
春夏秋冬の分け方については、以下をご覧ください。
関連:四季(春夏秋冬)の期間はいつからいつまで?季節の区切り方とは?
【2025年】有名な夏祭り一覧!日本の伝統的な夏のお祭りといえば
それでは、日本の伝統的な夏のお祭りを見ていきましょう!
青森県 青森ねぶた祭(あおもりねぶたまつり)
開催期間:2025年8月2日(土)~7日(木)
開催場所:青森県青森市内中心部
リンク:青森ねぶた祭 オフィシャルサイト
青森ねぶた祭は、東北四大夏祭りのひとつです。
昭和55年(1980年)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
東北四大夏祭りは他に、「仙台七夕まつり」「秋田竿燈まつり」「山形花笠まつり」があります。
ねぶたは、ねぶたの専門家である「ねぶた師」を中心に300人ほどが関わって一年がかりで作っているそうです。
大勢の人が時間をかけて作り上げたねぶたが青森市中心街をパレードするだけでもその迫力に圧倒されますが、神話のワンシーンや武者などをアイディアに富んだデザインで表現したねぶたが闇夜に浮かぶ美しさも見どころのひとつです。
「ねぶた」は他に「ねぷた」「ねふた」などと呼ばれています。
「ねぶた」の語源は、七夕(7月7日)に行われる「眠り流し」と呼ばれる行事が由来といわれています。
真夏は寝苦しく、睡眠が十分にとれないので疲れがたまり睡魔に襲われます。
睡魔は労働の妨げになったり、悪い病魔を呼び込む元になると考え、これを祓い清めるために、水浴びをしたり、灯籠を海や川に流したりしたそうです。
そして「眠り流し」が変化し、「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぶた」となったとされています。
また他にも、
「眠り(ねむり)」
「眠たし(ねむたし)」
「七夕(たなばた)」
「荷札(にふだ)」
「合歓木(ねむのき)」
などが訛ったものといわれています。
青森ねぶた祭の起源は先ほど紹介した「眠り流し」といわれ、灯篭流しが変形したものと考えられています。
奈良時代(710年~794年)に中国から七夕が伝わり、青森県津軽地区に古くからあった精霊送りや人形送りなどの風習と融合し、灯篭流しがおこなわれるようになったようです。
灯篭を手に持って、笛や太鼓の音色とともに町内を練り歩き、最後は川に灯篭を流していたといわれています。
そして、最初は手に持つことができる大きさだった灯篭が、次第に大型化し、青森ねぶた祭になったと考えられています。
現在のように大きな山車(だし)が作られるようになったのは、江戸時代(1603年~1868年)後期ごろです。
明治時代(1868年~1912年)になると山車は江戸時代よりもさらに大型化し、現在のものより背が高かったそうです。
明治3年(1870年)には高さ約20mのねぶたが作られ、100人で担いだといわれていますが、電気が普及し、街中に電線が張り巡らされるようになったため、それを避けるために背を低くし、現在の大きさになりました。
現在は、幅約9m、高さ約5m、奥行き約7mを最大サイズとする規定があります。
その後、明治政府がねぶた祭を地方の古い習慣を悪習と決めつけ禁止されたり、戦争があるとたびたび中止されましたが、昭和19年(1944年)に復活しました。
昭和22年(1947年)は「戦災復興港祭り」という名称で開催され、昭和33年(1958年)に「青森ねぶた祭」という名称になり現在に至ります。
戦後になると青森ねぶた祭は観光化され、高度経済成長期には日本の景気の盛り上がりと同じように青森ねぶた祭も華やかに賑やかに変化していきました。
現在は国内有数の大きな祭となり、国内外から200万人以上の人が集まり青森の夏を盛り上げています。
ねぶたの周りで踊る人たちのことを「ハネト(跳人)」といいます。
笛や太鼓の音に合わせて「ラッセラー、ラッセラー」や「ラッセーラ、ラッセーラ」と掛け声をあげながら祭を盛り上げます。
ハネトは基本的に自由参加ですですので、あなたも参加できますよ。
参加条件は、ハネト衣装を着ていることです。
ハネト衣装は青森駅前などでレンタルや販売をしています。
掛け声の「ラッセラー」は「出せ」が語源といわれています。
戦前までは、ねぶたの灯りがろうそくでした。
そのため、ねぶた祭の前に子どもたちが各家を回って「出せ出せろうそく」と歌いながらろうそくを集めていたそうです。
この時の「出せ」が「らせ」になり、「あー」という掛け声が加わって「ラッセラー」になったといわれています。
このろうそくを集める風習は北海道で「ローソクもらい」という風習になって残っています。
ローソクもらいについての詳細は以下をご覧ください。
関連:北海道の「ローソクもらい」の意味や由来とは?歌はどんな歌詞なの?
宮城県 仙台七夕まつり(せんだいたなばたまつり)
開催期間:2025年8月6日(水)~8日(金)
開催場所:宮城県仙台市中心部および周辺の地域商店街
リンク:仙台七夕まつり – 伊達政宗公の時代より続く、日本一の七夕
東北四大夏まつりのひとつで、地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。
東北四大夏祭りは他に、「青森ねぶた祭」「秋田竿燈まつり」「山形花笠まつり」があります。
仙台七夕まつりは、仙台市周辺で8月7日の月遅れの七夕を中心に3日間行われます。
仙台市中心部では大規模な飾り付けが行われることで有名です。
特に仙台駅西側のクリスロード商店街、サンモール一番町商店街、一番町四丁目商店街などでは、人々の頭上に迫るほどの大きな色とりどりの七夕飾りがアーケードの天井に飾られ、賑やかにお祭りを盛り上げます。
10mを超える巨大な竹を用いた豪華絢爛な七夕飾りは、仙台七夕まつりに欠かせないものであり、見どころのひとつです。
また、東日本大震災からの復興への祈りを込め、震災後2012年からは折り鶴が飾られるようになりました。
仙台市の小中学生らがひとつひとつ祈りを込めて作った折り鶴は、毎年7万~8万羽以上飾られているそうです。
七夕については以下のリンク先をご覧ください。
関連:【2025年】七夕の節句の読み方と意味、歴史とは?別名は?食べ物はそうめん?
仙台七夕まつりは、仙台藩初代藩主である伊達政宗(だてまさむね・1567年~1636年)の時代から続く伝統行事で、毎年旧暦7月7日に行われていました。
詳細は不明ですが、婦女子の芸術への関心を高めるため、文化向上のために伊達政宗が七夕を奨励したといわれています。
江戸時代(1603年~1868年)初期ごろには江戸幕府が七夕を年中行事にしたことで、七夕の祭りは全国各地で行われるようになりました。
その後、明治5年(1872年)に新暦(現在のグレゴリオ暦)に改暦された際、仙台市では月遅れの8月7日に七夕祭りを開催するようになりました。
関連:「お盆」や「七夕」の時期が地域によって違うのはなぜ?7月と8月の地域はどこ?
その後、第一次世界大戦(1914年~1918年)の戦後恐慌によって不景気になりました。
仙台市では昭和2年(1927年)に、不景気を吹き飛ばそうと考えた商店街の有志が大規模な七夕飾りを復活させたところ、多くの観客で商店街がにぎわったことから、それ以降、豪華で美しい飾りが発展していきました。
第二次世界大戦時には、七夕祭りは中止されますが、終戦翌年の昭和21年(1946年)には仙台空襲で焼け野原となった街に七夕の飾りが52本立てられました。
昭和22年(1947年)には、昭和天皇が御巡幸(ごじゅんこう・天皇が各地を巡ること)なさった際に5000本の七夕飾りで7色のアーチを作って天皇陛下をお迎えしたそうです。
その後、次第に観光イベントとして日本各地から観光客が集まるようになり、現在は花火大会や屋外音楽コンサートなども祭のイベントとして開催されており、毎年200万人を超える観光客が訪れる盛大なお祭りになっています。
京都府 京都祇園祭(きょうとぎおんまつり)
開催期間:2025年7月1日(火)~31日(木)
開催場所:京都府京都市東山区 八坂神社周辺
リンク:祇園祭|主な神事・行事|八坂神社
京都祇園祭は、八坂神社の祭礼(さいれい・神社の祭りのこと)です。
平安時代(794年~1185年)の864年に富士山噴火が起こり、869年には陸奥(むつ・現在の東北地方)に大地震が発生し津波で多数の犠牲者が出るなど、全国的に天変地異が続きました。
また、日本各地に疫病が流行していたこともあり、869年に朝廷が御霊会(ごりょうえ)を行ったのが、京都祇園会のはじまりといわれています。
御霊会とは、思いがけない死を迎えた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための鎮魂の儀礼です。
この当時は、天変地異や疫病の流行などはすべて御霊の所業と考えられていたようです。
このころ八坂神社は、神仏習合(しんぶつしゅうごう)といって、神と仏が一緒に祀られていたことから「祇園社」と呼ばれており、「祇園祭」も仏教行事の影響が強い「祇園御霊会」と呼ばれていました。
その後、次第に御霊会の規模が大きくなっていきます。
室町時代(1336年~1573年)には、58基の山鉾(やまほこ)があったと「祇園社記」という書物には記されているそうです。
山鉾とは、山車(だし・お祭りなどで、引いたり担いだりするものの総称)の呼び方のひとつです。
天変地異や疫病の流行などはすべて御霊の所業と考えられていたため、御霊会の山鉾には疫病退散の願いが込められていました。
「祇園御霊会」は、1467年の応仁の乱で祭が中断されますが、大地震や大津波などの天変地異が続いたことで1500年に復活します。
その後も、大災害や戦乱などで中断されることが何度もありますが、その都度、京都の人々によって再興されました。
明治時代の神仏分離令(しんぶつぶんりれい・神と仏は別々に祀ること)によって祇園社から八坂神社という名称に変更になり、祭の名前も「祇園祭」に改名され、現在に至ります。
京都祇園祭は、一か月間という長い期間で行われ、八坂神社周辺では各種の神事や行事が繰り広げられます。
中でも、7月17日と24日に行われる「神輿渡御(みこしとぎょ・神輿が巡行すること)」と34基の「山鉾巡行」が見どころです。
「京都祇園祭の山鉾行事」は平成21年(2009年)にユネスコ無形文化遺産に登録されています。
京都祇園祭は「後の祭り」の語源にもなっています。
関連:「後の祭り」の祭りって何祭り?語源や意味とは?「祭りの後」との違いは?
大阪府 天神祭(てんじんまつり・てんじんさい)
開催期間:6月下旬の吉日~7月25日
メインは7月24日(水)、25日(木)
開催場所:大阪府大阪市 大阪天満宮周辺
リンク:天神祭 | 大阪天満宮
大阪天満宮の天神祭は日本三大祭のひとつであり、大阪三大夏祭りのひとつでもあります。
日本三大祭は他に、
「東京都の神田祭(かんだまつり)」
「京都祇園祭」
があります。
大阪三大夏祭りは他に、
「大阪市住吉区の住吉祭(すみよしまつり)」
「大阪市天王寺区の愛染祭(あいぜんまつり)」
があります。
大阪天満宮は学問の神様とされる菅原道真(すがわらのみちざね・845年~903年、貴族、学者など)を御祭神(ごさいじん・祀られている神様)とする神社です。
菅原道真の誕生日は旧暦6月25日、命日は旧暦2月25日なので、毎月25日を菅原道真の縁日(えんにち・神仏に由来がある日、縁がある日)としています。
明治5年(1872年)に新暦(現在のグレゴリオ暦)に改暦された際、旧暦と新暦の1か月のズレを考慮して、旧暦6月25日の誕生日を新暦7月25日とし、6月30日の夏越の大祓(なごしのおおはらえ)と合わせて開催するようになったのが大阪天満宮の天神祭です。
6月下旬吉日~7月25日まで、約一か月間にわたって各種の神事が行われます。
夏越の大祓についての詳細は以下をご覧ください。
関連:【2025年】「大祓」はいつ?意味と由来とは?「茅の輪くぐり」の作法やくぐり方
天神祭は、菅原道真の御神霊に地域の平安と賑わいを見てもらい、今後のさらなる繁栄を祈願するお祭りです。
大阪天満宮が949年に創建された2年後の951年6月1日に「鉾流神事(ほこながししんじ)」が行われたのが天神祭の始まりとされています。
鉾流神事とは、大阪天満宮近くの浜から大川(旧淀川)に神鉾(かみほこ)を流して、流れ着いた場所に祭場を設けて菅原道真の御神霊を祀る神事です。
その際、祭場にご神霊をお迎えするために、人々が船を出してお迎えしたのが「船渡御(ふなとぎょ)」の起源といわれています。
その後、次第に船の数が増えていき、豊臣秀吉(1537年~1598年)が大坂城を築いたころには船渡御の形が整っていたといわれています。
江戸時代(1603年~1868年)になると天神祭は大阪の繁栄のシンボルとして、より華やかで賑やかな祭へと変化していきます。
江戸時代(1603年~1868年)の初期に祭場が雑喉場(ざこば・大阪市西区の地名)に定められたため、流れ着いた場所に祭場を設けるという意味合いが薄れたことで鉾流神事が取りやめられました。
そして、大阪天満宮から船渡御が行われる川岸までご神霊を乗せたお神輿(おみこし)の「御鳳輦(ごほうれん)」を運ぶ神事である「陸渡御(りくとぎょ)」が行われるようになりました。
その後、天神祭は大阪の繁栄のシンボルとして、より華やかで賑やかな祭へと変化していきます。
幕末の混乱や、第一次・二次世界戦争などの影響で、祭が中止されることもありましたが、その度に復活し、現在に至ります。
観光客が多く訪れるお祭りのメインは7月24日、25日です。
24日は宵宮(よいみや)といいます。
「宵宮祭(よいみやさい)」
「鉾流神事」
などが行われます。
「宵宮祭」では、本殿で祭が無事に行われるよう祈願します。
「鉾流神事」では、西天満小学校6年生男の子が神童(しんどう・瑞枝の童子のこと)という役割を務め、船上から神鉾を川に流します。
瑞枝の童子(みずえのどうじ)とは、その年にひとりだけ選ばれる大役で、選ばれてから祭が終わるまでの期間は食事や生活態度などが厳しく制限されます。
鉾流神事では神職とともに船に乗り、天神祭の間は常に神様に付き添います。
25日は本宮(もとみや)といいます。
「陸渡御(りくとぎょ)」
「船渡御(ふなとぎょ)」
「奉納花火」
などが行われます。
「陸渡御」は、ご神霊を載せたお神輿をはじめ、地車(だんじり)や獅子舞など豪華で色彩豊かな衣装をまとったおよそ3000人の行列が、大阪の街を練り歩きます。
「船渡御」は、ご神霊を載せた船や、神に仕える人々を載せた船、人形を飾った船などさまざまな船が大川を航行するもので、天神祭のメインイベントといわれています。
また「奉納花火」は天神祭の最後を飾るイベントで、大川に浮かぶ100隻の船のかがり火と、夜空を美しく飾る花火のコラボレーションがとても幻想的です。
天神祭の奉納花火でしか見ることのできない、菅原道真公にちなんだ梅鉢形のオリジナル花火「紅梅」が打ち上げられるのも魅力のひとつです。
関連:天満宮に梅があるのはなぜ?太宰府天満宮の飛梅伝説とは?
徳島県 徳島阿波おどり(とくしまあわおどり)
開催期間:2025年8月11日(月)~15日(金)
開催場所:徳島県徳島市 徳島駅南側の繁華街一帯
徳島阿波おどりは、お盆期間に徳島県徳島市で開催される盆踊りです。
町おこしの一環として、日本各地で阿波踊りが開催されていますが、徳島県が阿波踊り発祥の地です。
徳島阿波おどりは400年続く伝統芸能といわれていますが、起源や由来は定かではなく、以下のように諸説あります。
城の完成祝いが起源という説
蜂須賀家政(はちすかいえまさ・1558年~1639年、徳島藩初代藩主の父)が徳島城を築城したとき、城下の人々が城の完成祝いとして踊ったことが起源という説があります。
風流踊りが起源という説
十河存保(そごうまさやす・1554年~1587年、戦国大名)が、勝瑞城(しょうずいじょう)で風流踊りを開催したのが起源という説があります。
風流踊りとは、華やかな衣装を身につけて、笛や太鼓の音に合わせて大勢で踊るものです。
盆踊りが起源という説
もともと行われていた盆踊りが起源という説があります。
このように諸説ありますが、周辺地域の踊りなども取り入れ、次第に大規模な祭になったと考えられています。
「阿波踊り」という名前が定着したのは昭和になってからで、昭和32年(1957年)に東京都杉並区で「東京高円寺阿波おどり」が開催されたことをきっかけに、全国へ広まったといわれています。
徳島阿波踊りの見どころは、男女や子どもの踊りの違いや、連(れん・踊りのグループ、団体のこと)ごとの踊り方の違いです。
男性の踊りは「男踊り」といい、躍動感があって豪快で迫力があります。
女性の踊りは「女踊り」といい、気品があり美しくしなやかです。
子どもの踊りは「子ども踊り」といい、男踊りを基本として元気いっぱい踊ります。
1000ほどあるといわれる連は、それぞれ踊り方が異なります。
・全員がぴったりと揃った踊りをする連
・揃えずバラバラにそれぞれが個性的に楽しむ連
・伝統の踊りを重視している連
・アクロバティックな踊りをする連
・ヒップホップダンスを取り入れる連
などがあり、連ごとの違いを楽しむことができます。
また、阿波おどり振興協会に所属する15の有名連が集結し、踊り子千人・鳴り物数百人という規模で演舞場を進んでいく大迫力な踊りを「総踊り」といいます。
高知県 高知よさこい祭り(こうちよさこいまつり)
開催期間:2025年8月9日(土)~12日(火)
開催場所:高知県高知市 高知駅前、高知城、中央公園など
高知よさこい祭りは、昭和29年(1954年)に、高知商工会議所青年団によって第1回よさこい祭りが開催されたのがはじまりです。
戦後の不景気で落ち込む市民を盛り上げたい、徳島阿波踊りのようにみんなが楽しむことができて、ずっと続けられる祭りを作りたいという思いから、県や市に協力を要請して開催に至ったそうです。
よさこい祭りに欠かせないのが「鳴子(なるこ)」です。
2つ一組で、両手にそれぞれ鳴子を持って、カシャカシャと楽器のように鳴らしながら踊ります。
朱色のしゃもじ型の台に黒と黄色のバチというのが伝統的で基本の形ですが、チームごとに色や形をアレンジして使っているようです。
もともと鳴子は、米や農作物を鳥や獣から守るために田畑に吊るす道具でした。
よさこい祭りが誕生した際、昔から馴染みのあった道具である鳴子を持って踊るようになったといわれています。
高知よさこい祭りは、華やかな衣装と踊りが見どころです。
趣向を凝らした約200チームが市内各所の競演場・演舞場で演舞を繰り広げ、審査によってよさこい大賞、金賞、銀賞などさまざまな賞が決まります。
鳴子の鳴らし方、打ち方も審査基準になるそうです。
最初のころは参加者が750人ほどのお祭りでした、次第に増えていき、現在は1万人を超える大規模なお祭になっています。
平成4年(1992年)に、北海道札幌市でYOSAKOIソーラン祭りが開催され、これをきっかけによさこい祭りが全国各地へ広がりました。
福岡県 博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)
開催期間:2025年7月1日(火)~15日(火)
開催場所:福岡県福岡市博多区 櫛田神社、博多区各地
リンク:博多祇園山笠
博多祇園山笠は、博多の総鎮守(そうちんじゅ・国または土地全体を守る神)といわれる櫛田神社(くしだじんじゃ)に山笠(やまかさ)を奉納する神事です。
山笠とは、一般的なお祭りで言うところの山車(だし・お祭りで、引いたり担いだりするものの総称)の呼び方のひとつです。
参加者や、博多の人々は博多祇園山笠を「山笠」と略して呼ぶそうです。
国の重要無形民俗文化財(指定年不明)に指定されており、平成28年(2016年)には博多祇園山笠を含めた日本全国33の祭りがユネスコ無形文化遺産に登録されました。
博多祇園山笠の起源については定かではありませんが、以下のようにいくつかの説があります。
円爾が起源という説
最も有力な説は、鎌倉時代(1185年~1333年)の1241年に博多で疫病が流行したとき、円爾(えんに・1202年~1280年、臨済宗の僧、承天寺(じょうてんじ)の開祖)が水を撒きながら街を清めて回り疫病退散を祈祷したというものです。
九州軍記が起源という説
現存する最古の史料とされる「九州軍記(きゅうしゅうぐんき)」という書物に記されている1432年を起源とする説があるそうですが、詳細不明です。
室町時代、安土桃山時代の間は、史料が少なく詳細がわかっていませんが、博多祇園山笠は隆盛と衰退を繰り返したのではないかと考えられています。
戦国時代(1467年~1590年)には博多は大陸との貿易基地として栄えたため、戦国大名や豪族の争奪の場となり、焼け野原となってしまい博多祇園山笠も中断されますが、後に豊臣秀吉の命により、復興しました。
江戸時代(1603年~1868年)前期には「流(ながれ)」が構成されました。
流とは、10~15ほどの近隣の町が集まって構成する自治組織のことで、博多祇園山笠のグループの単位でもあります。
現在は「七流(しちながれ)」と呼ばれる7つの流がそれぞれ山笠を制作しています。
そして、1725年ごろには速さを競う「追い山(おいやま)」が行われるようになりました。
「追い山」の起源は諸説ありますが、1687年の出来事が由来といわれています。
それまでの博多祇園山笠はのんびりした祭で、山笠を担いで移動中に休憩をしたり食事をしたりしていたそうですが、1687年に、土居流が休憩中に石堂流が追い抜いて行ってしまいました。
土居流は追い抜かれてはならないと走り出し、二つの流が追いつ追われつする競争が始まったそうです。
その様子に観客たちが大喜びし、それ以降、速さを競うようになったといわれています。
「追い山」の正式名称は「追山笠(おいやまかさ)」といい、現在も博多祇園山笠の一番の見どころとなっています。
江戸時代後期には、ひとつの山笠にふたつの呼び方がありました。
路上に置いて動かさない状態の山笠を「据え山(すえやま)」と呼び、据山を人が担いで移動させる状態の山笠を「舁き山(かきやま)」と呼んでいたそうです。
次第に山笠は大規模になり、最盛期には高さが16メートルにも達しました。
明治期の壮大な博多祇園山笠。
グラフィックソフトを使った修復・彩色加工データに、AIによる高精細化加工&色付けデータを効果的に加えたカラー化写真。今年の博多祇園山笠は4年ぶりに制限なしで通常開催されるとのこと。楽しみです。#colorization #精密カラー化 pic.twitter.com/bjie3W6oGB
— 三木秀記 / Adjust Photo Service (@MikiAdjust) June 9, 2023
しかし、明治時代(1868年~1912年)になると電気が普及し電線が張り巡らされるようになり、高さがある山笠が電線に引っかかるようになってしまいました。
明治30年代には、その場に置いたまま動かさない観賞用の山笠の「据え山」と、人が担いで移動させる「舁き山」というふたつの山笠を作るようになりました。
据え山は後に「飾り山(かざりやま)」と名前が変わり、博多区の各地に飾るようになりました。
「飾り山」の正式名称は「飾山笠(かざりやまかさ)」です。
また、「舁き山」は電線に引っかからないように高さは3メートルほどになりました。
「舁き山」の正式名称は「舁山笠(かきやまかさ)」です。
ちなみに「舁き山」の「舁き」は、担ぐという意味です。
山笠を担ぐことを「山笠を舁く」、山笠を担ぐ人を「舁き手(かきて)」と呼びます。
昭和20年(1945年)は福岡大空襲の影響で中止となりますが、昭和30年(1955年)に博多祇園山笠振興会が発足して博多祇園山笠は復興し、現在に至ります。
博多祇園山笠の見どころ「追い山」です。
正式名称は「追山笠(おいやまかさ)」です。
櫛田神社を順番にスタートし、指定された約5㎞のコースをベテランの担ぎ手がかわるがわる舁き山を担いで疾走し、タイムを競います。
豪快で迫力ある担ぎっぷりが見どころとなっています。
また、「流舁き(ながれがき)」も見どころのひとつです。
「流舁き」とは、各流が自分たちの区域内を巡ることで、地域の細い路地まで入っていきます。
博多祇園山笠が地域に根差した祭であることを実感でき、各流の「舁き山」をゆっくり見学することができます。
特に有名な夏祭りをご紹介しました。
数日にわたって開催されるお祭りもあれば、一か月間という長い期間開催されるお祭りもあります。
期間内にどの場所でどのようなことが行われるのか、事前にチェックしていくと良いですね。
夏の暑い時期に開催されるので、熱中症対策をしっかりして楽しんでくださいね!
関連:【2025年】有名な春祭り一覧!日本の伝統的な春のお祭りといえば
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